杖
それは戦いが終わって家に帰った後の出来事だった。鈴香は勇人と洋子の顔を見つめながらふたりの関係に癒されていた。続いて隣を歩く怜の鋭い目に少しの怯え、これまで得てきた感情の余韻に肩まで浸かりながらも鈴香は震える声を空気に染み込ませた。
「あの……勇人と、ええ、ど、どんな……関係」
怜の目は鈴香に向けられる。しっかりと見つめ表情を掴む目は鋭くて、端に感じる優しさなどついで程度のものにしか思えなかった。
「なんだろうな、友だちっつったらいいんだか」
鈴香の手に怜の手が重ねられる。すぐに離れたそこにはキャラメルが置かれていた。
「鈴香も俺のこと怖いか? いつものことだ、俺は子ども好きなんだがな」
怜の子ども好き、顔が整っていながらもやはり鋭い目は子ども心には恐ろしいと思いがちなのだろうか。眼の中に潜む色と周囲が見て取る感情の色彩はこの上なくかけ離れていた。
「俺のこと慕ってくれる子なんざ今のとこひとりしかいねえしな、鈴香の近所にいる子なんだが」
それはいったいどのような人物なのだろう、鈴香はその子どもが気になって仕方がなかった。
夕暮れは未だに地平線の向こうに控えているのだろうか。その時が来るにはまだまだ早いようだった。それでも帰ってしまうのは鈴香が子どもだからだろうか、迷惑だっただろうか、ついて行かなければ三人の楽しい時間はもっと伸びただろうか。申し訳の無さは顔に表れてしまう、目を細めて眉を顰め、顔は微かに地へと向けられる。その顔の色は怜の目にしっかりと映り込んでしまっていたようだった。
「どうした、楽しくなかったか」
訊ねられる、そうした問いを上げる声は語っていた。鋭い瞳でも心の奥まで見透かすことなど出来ない、お天道様も見てくれないその感情はヒト同士でも見つめ合うだけでは理解など出来ないのだと。
「その、もしかして……私、一緒に……行かない方が……良かった、かな」
一緒でなければ、三人でならもっと長い時間を共に過ごすことが出来ただろう。幼い自分がいたがために。そのような訊ねに対し怜の表情は晴れ空を見せていた。
「鈴香がいてくれて嬉しかった。みんな可愛がってたしかわいいし、なにより優しい子だし」
きっと鈴香の問いが優しさを完全に見えるところにまで引っ張り出してしまったのだろう。
やがて家にたどり着いた。お別れの時間、それを迎える時には既に鈴香の中から怜に対する恐怖心など抜け落ち切っていた。
新しい気持ちと共に、またひとつ変わった自分の心の色を味わいながら、キャラメルの優しい甘さを口の中で転がしながら勇人が開いたドアの向こうの景色へと帰った。
そうして自身の部屋へと戻ったその時、カーテンは揺れた。窓を開けていたわけでもないのに、風も感じられないにもかかわらず揺れ続けていた。
「え……なに」
「私だ」
声を合図に鈴香の目にショッピングモールで杖をくれた女が映り始めた。瞳いっぱい、埋め尽くすように映る女は身体が大層貧相で赤みがかった茶髪を纏めた房を左肩に提げていた。
女は大きなニヤけを浮かべながら鈴香に対する言葉を続けた。
「やあ久しぶり、どうだったか、高校生とのデートは。私的にはあくびが出る退屈さだったな」
「その、楽しかった……です」
消え入りそうな声がその女との会話の不慣れを語っていた。
「そっか、感性豊かなんだね。慣性と惰性で行けるとこまで生きる私とは大違いだなあ」
それから女は大した膨らみもない胸に手を当てて自らの名を知らせる。
「私の名は刹菜。鈴香ちゃんの味方だからその名を心の壁にでも刻んでおくといい」
刹菜のほっそりとした身体は美しさよりもやつれて弱り果てた様を思わせた。身体は食事をくれと力なく叫んでいるようで見ているだけでも心が痛んでしまう。
「本題に入らせてもらうとするよ。今日の昼、杖を投げ渡したと思うけどあれを使って勇人を救って欲しい」
曰く、勇人はあの非現実の中に入り込み既に身を濃く深い闇に染めてしまっているのだそう。
「あの男は私たちの界隈で魔女と呼ぶ者、んん? 普通の魔女と違うのかって? その手のは別の実力者さんたちがやっつけてくれるって」
非現実の中にも決まりや線引きはあるようだ。刹菜は説明を繋げた。
「私たちの言う魔女、人類の進化系、人類の亜点第一種のことだけどそいつは自分以外の魔力を勝手に拝借して魔法を使うのさ」
更に続けられた話によれば鈴香の家系では女が魔力を大量に持つ、成長期に魔力は増えて魔女に攫われる危機が迫っているために勇人が魔法のセカイに身を投げて魔女を狩る準備として戦い実力を用意しはじめていること、既に人というものからかけ離れて嗅覚味覚触覚をほぼ失っていることを告げられた。
「悲しいよね、世界と繋がる手段を捨ててまで使い捨てにされようだなんて」
勇人が魔法を扱う第一歩として祖父から渡された薬を飲み魔女と同じ力を得たのだと語られた。
「鈴香、キミはこれからその杖を使うんだ、魔女と同じ性質の杖、魔力は多くなるけども魔法の才能がない鈴香の魔力を吸ってチカラを一時的に与えるそれを自分の感情を導くことで勇人を正しき道へ光の導きを与える〈導きの魔女〉の力を使って」
大好きな兄を救うため、妹を魔法のセカイに触れさせないために戦い続ける勇人を正しき道へと案内するために鈴香は魔法のセカイに触れる。
これが鈴香の魔法の儀式の始まりだった。
☆
鈴香の幼い瞳に映るその景色は全て輝いていた。何もかもが憧れ色で風は希望となって鈴香を撫でるように吹いていた。それはまさに希望のように映っていて、その瞳の中に散って煌めく星となっていた。
心に沁み入る輝きの中、淡い色を持つ少年、可愛らしい顔をした勇人は鈴香に手を振った。
「学校、楽しく過ごせたらいいね」
「そう、だね」
輝きに満ちた世界の中に突如として影が蔓延った。鈴香はひとりぼっち、身の回りには構ってくれる人物など誰もいなかったものの勇人の言葉を何度も繰り返し唱え続ける。ただそれだけでどこまでも幸せな気持ちに浸ることができた。
「勇人って……温かい」
温かな体温に暖かな人柄が備わっていて、鈴香がもしも来世を男の身で過ごすのならと考えた時の憧れのひとりだった。
勇人と別れ歩き、見えてきた校門、くぐってひとりでの生活は幕を開ける。
教室へと入り込み、ランドセルを下ろして席に座る。椅子は座った途端に揺れて、削れた脚が訴えていた。長さが違うのだということを。
「どうにか、ならない……かな」
その揺れを全力で楽しむ男子がひたすら身体を左右に揺らしていた。
周りでは楽しそうに会話を繰り広げる人々がいた。同級生の男の子たちはアニメの話で盛り上がり、女子たちは流行りの男性アイドルのことを。
それぞれが異なる色の笑顔を浮かべていて、鈴香はただひとり置いて行かれていた。
――どうして……私、だけ
分かりやすいほどにハッキリとしたひとりぼっち。馴染むことも出来ない、金もなければテレビを自由に見ることも許してくれなかったために共に持って雰囲気に溶け込むための話題がなかった。
祖父がいつもスポーツ中継を観ながら選手のミスや会場のトラブルなどに対して威勢よく吼えるさま、犬のような様をひたすら見ることしか出来ずにやはり見ているセカイが周りとゆったりと確実にズレて行ってしまっていた。もはや今の鈴香と学校を繋ぎ止めるものは親への迷惑という積極性の欠片も見当たらないものだけだった。
鈴香の席の近くでは男子たちが引き続きアニメの話をしていた。
「あの敵強すぎるよな」
「わかる、アイツ倒せねえだろ」
「大丈夫、ヒーローがなんとかしてくれるよ」
会話の中身に理解の波は訪れなかったものの、とにかく主人公がピンチなのだとただそれだけが頭に入ってきて、頭の中に残り続けた。危ういのは果たしてアニメのセカイのその程度のものを指すのだろうか。その男子たちの後ろには、現時点で孤立の危機に迫っている少女がいた。寂しくてもツラくても、少女には、鈴香にはなにもできなかった。
ドアの向こうから大人がやってきた。教師、彼が訪れることでようやく鈴香は救われた。休み時間よりも授業時間の方が好きだと思っている鈴香は変わり者なのだろうか。
鈴香には分からなかったものの、同じ話題をなにひとつ持っていない彼女にとってこの時間こそが世界と正しくつながることの出来る数少ない時間だった。
算数は真ん中よりも少し上、理科と社会に至ってはよく覚えていた。国語と体育はどん底であったものの、世間からズレて子どもっぽさの度が過ぎる図画工作よりは如何ほどにもまともに思えていた。
そんな今日の授業の中に家庭科、調理実習が含まれていた。ハンバーグを作るという課題、みんなで協力というテーマ、そこに鈴香の存在を省く脅威の塊、湿っぽい闇が纏まってねじ込まれていた。
いつでも同じ、動きも言葉もたどたどしくて遅い鈴香は立派なクラスの厄介者、作業に於いては邪魔者にしか成れなかった。
「お前はこれ、お前はそれ、俺が肉焼くから」
「あなた肉焼きたいだけでしょ」
女子に咎められながらも男の暴走は止まることもなくただ腰に手を当て脚を広げて気合いだけを注ぎながら自分の番が来るのを待つだけだった。
「いいぞお前らこねろこねろ」
お前らと呼ばれた人々、同じ班に所属しているはずの鈴香はその中に入ってすらいなかった。
やがてこね終えたハンバーグが三つ並んでいた。初めから鈴香の分など用意されていなくて初めからそのような女などいないという扱いで授業は進められていた。
「焼くぜ」
そう叫びながらフライパンに放り込まれた周りの班より少しばかり大きなハンバーグに火を通しながら調理酒を回してかけていく。
男の目には何が映っただろうか。勢いよく燃え上がり炎がフライパンから躍り上がる、そのようなもの、しかしそれは男の妄想に過ぎなかった。現実に向き直り、男は舌打ちをした。
「はあくそ、シェフみてえに上がんねえよ」
――それ、違う酒で……やるんじゃ、なかったっけ…………ブランデー、とか
フランベ、フライパンの上を炎が派手に舞う様がよく映えるその様は時たまテレビなどで取り上げられていた。酒の風味や香りを付けることで味に奥行きを持たせて重厚な食事の彩りを与えてくれる大人のテクニック。しかしながらこの男には炎の派手さ以外何ひとつ見えていなかった。おまけに無知であった、テレビでの紹介解説すら殆ど右耳から入れて通り抜けて左耳から出て行くという始末だった。ブランデーなど、アルコール度数の高い酒でなければ炎が上がらないという事実をこの男は見ていながらにして知らなかった。
そうして焼き上がったハンバーグは香りがよくて食欲をそそられる。鈴香は漂って来る香りを、肉の焼ける匂いと様々な調味料を混ぜたソースの交わりを、見た目というモノだけを食べていた。
周りが美味しそうと言って食べて盛り上がっている様に加わることが出来ない、入り込むことそのものが迷惑でしかないためにただ指をくわえて見ていることしか出来ずに立ち尽くす。その様子を班の人どころか周りの人々、教師までもが見て見ぬふりをし触れようとすらしない。
このままでは、居ても居ないも同然、在っても無くても同じことでしかなかった。
それでも慣れ切った鈴香は耐えていた。兄の勇人には決して知られてはならないということ、きっと彼は教師に電話を入れてしまうだろう。下手な問題は起こしたくなかった。
虚無に浸り続けて行って、深淵に陥り嵌まって抜け出せない中でのことだった。鈴香に向けて皿が差し出された。
「はい、あげるよ。俺が焼いたのでよかったら、半分でいいならね」
ここでひとり、ただひとり、鈴香にハンバーグを差し出す者が現れた。薄水色の癖のある前髪を揺らしながら口元で微笑んで。
「ええと、その……ありがと、雪時くん」
「良いって気にすんな」
子どもらしい可愛げのある顔に薄桃色の熱が入る。照れが見えていて、鈴香に向けていた視線は少しだけ逸れていた。
――ふふ……カワイイ
男の子に言うときっと怒ってしまうだろう。勇人に行った時も少し困った顔をしていて同じものだと思っていた。年齢の違いなど頭になかった。
鈴香は早速差し出されたハンバーグを、雪時の想いの籠もったそれをいただいた。肉汁が既に出て行ってしまって口の中で崩れる肉からは何となく乾いた食感を連想させる食感を口にして、肉の香りとソースの味はしっかりと混ざり合って塩気とちょっとした甘味と肉の奏でる味わいに身を包んでいた。
「……美味しい」
「大丈夫か、今にも泣きそうな顔して」
顔を逸らして赤くして、鈴香は右眼で見るように雪時の方を微かに向いた。
「そういう……こと。言わないで、よね」
目頭が熱くて胸が苦しくて。久々に学校の中で触れた優しさがここまで甘くてほろ苦いものだと知ったのはいつ以来だろう。同じ感情であれど改めて知ることは新たに知ることだと、今になって思い知らされた。
「その。ホントに……ありがと」
途端のことだった。鈴香の中に生まれた感情、弱々しい鈴香の声が語りかけていた。鈴香の心の声としてでなく、ひとつの生きた感情として声を上げていた。
――受け入れてくれたね、感謝の私を。この気持ちを、自覚して……自分のモノにして
この世界、この宇宙の中のさらに小さな鈴香という小宇宙、そこで生まれた生き物は鈴香の感情そのものだった。
心の中のセカイ、胸の内でそれは唱えられた。
『神聖なる道しるべよ 私に仲間に人々に 正しき導きを与えたまえ』
脳裏、想いの内側で鈴香は輝く杖を握りしめていた。
カドゥケウスの杖はその姿を変える。白くて短い棒の先に着いた珠は透き通ったピンクに染まり翼は純白の天使へと昇華された。互いに見つめ合っていた二匹の蛇は桃色のリボンへと姿を変えた。輝きはさらに増して鈴香のセカイを照らして、眩しさで彩り飾り付けていた。心の中という舞台を舞う鈴香の衣装は受け入れの儀式の正装へと差し替えられる。純白のドレスに身を包み、薄桃色のリボンが胸元を交差してしっかりと締め、仄かなくびれを持つウエストラインにリボンは巻き付く。左端に結ばれたそれは大きな蝶のようにひらひらと舞う。膝から足を覆う白いソックスは穢れのひとつも知らずに清潔の象徴、小さな足を覆う皮の靴は薄桃色の弱々しい輝きを放っていた。
前髪の左端にリボンが結ばれると共に鈴香は凛とした微笑みを浮かべて杖を構えた。
受け入れるために必要な言葉を、受け入れる心を、杖と共に輝かせて決められた言葉を唱え続ける。
『光の導きは 正しき道へ 希望への道しるべを示したまえ LIGHT READ RIGHT LOAD』
輝きは希望の証、それは鈴香の心の天上を暖かな色で照らしていた。輝きは目の前に立つ感謝の想いに照らされた鈴香の欠片を包み飲み込んで、天使の衣に包まれた鈴香へと入り込んでいく。
「ありがとう……私の『感謝』の想い、いつもここに……いてくれて」
受け入れる感情、湧いてくる感謝は心の中に降り注ぐ雨となって感情に潤いを与えた。
その風景はいつもの家庭科室。鈴香は雪時に向けて満面の笑みを、満天の晴れ空気分をしっかりと届けてみせた。
「鈴香ってちゃんと笑えるんだね。いつもまゆ顰めて暗い顔してたから不安になってさ」
「家では、いつも……明るい、よ」
どこまで本気なのだろう、きっとすべて本気なのだろう。雪時は純粋な同級生に笑顔を向けた。
「そっか、笑顔の方が似合うぞ」
鈴香は頬に迸る熱を味わって、浮ついた気持ちを抱き締めていた。この想いがどこかへと飛んで行ってしまわないように、居なくなってしまわないように。
鈴香は雪時の顔を見つめ、手を差し出した。
「よろしく」
「こっちこそ、よろしくな」
それは、家族以外の人との初めての握手の瞬間だった。