第1章「会いたい人」5
「……じゃあ、せっかくだから、一曲だけ弾いていってもいいかな?」
「はい、遠慮なくどうぞ。私はそこの椅子に座って聞いていますので」
そういってピアノの椅子を隆之介に譲って女生徒は席を立って、小さな学習机の椅子に座って、体格のそれほど変わらない隆之介の様子を見守る。
隆之介は彼女の視線を感じながら高低差を変えられるマットブラックのピアノ椅子に座る。
先程まで座っていた女生徒のお尻の熱が残り、温かさを感じ、衝動的に来る気恥ずかしい気持ちをグッと堪え、白と黒の鍵盤にそっと指を添えた。
学内においては、自分のような金髪のハーフは珍しい、だから彼女はすぐに席を譲ってくれたのかもしれないと隆之介は思った。彼女のことは自然と親切な子だと印象づいていたから。
口数の少ないまま、グランドピアノを目の前にしてしまったことに少しばかりの罪悪感を覚えながら、隆之介は呼吸の整え、真剣な表情に切り替え、ピアノを演奏するためのスイッチを切り替えるために姿勢を正した。
女生徒が黙ってその様子を見守る。
不思議に思っていることだろう、普通なら遠慮するところである。
だが、隆之介が迷いながらも席に座ったのは自分の演奏に自信があるからに他ならなかった。
隆之介にはこうして偶然にも出会ったピアノ好きに対して聞かせたい”自分の演奏があった”
もちろん、この女生徒が自分の演奏を聞いたときにどんな反応が返ってくるかは分からない、もしかしたら敬遠されるかもしれないし、黙って立ち去られてしまうかもしれない。
でも、それ以上に、この女生徒に自分の奏でるピアノの演奏を聞いてほしいという意志の方が強かった。
毎日、欠かすことなく触れて来た人生の相棒というべき存在。
そのピアノとのこれまでの歩みを込めて、この女生徒に一曲で伝えたいと思ったのだ。
隆之介は余計な力が入らないように、出来る限りピアノに意識を集中させ、指先に想いを込める。
そして、時計の秒針の音だけがカタ、カタっと響く中、隆之介の演奏が始まった。
先程の女生徒の演奏とはまるで毛色の違う、勢いのある曲始め。
力強い指さばきで奏でるのは、葉加瀬太郎の『情熱大陸』だった。
小学四年生とは思えない演奏で一気に場を支配するように華麗な指さばきを披露し、難解な音階を連続して隆之介は披露する。
目の前の人物が小学生であることを忘れるほどの、どっと空気が変わったような旋律に女生徒も息を飲みながら隆之介の演奏に驚きの眼差しで見守る。
隆之介にとっては普段人になかなか見せることのない練習の成果を見せる演奏会となっていた。
辿り着きたい技術的到達点を目指し、理想の演奏だけを心に抱き、一生懸命に練習を重ねてきた日々の集大成がこの一曲の演奏に込められていた。
息を付く間もないまま、ただ正確に一心不乱に音階を刻み続け、一度も演奏を止めることなく隆之介は自分の限界を超えようと止まることなくイメージ通りの激しい旋律を必死に食らいつくように奏でる。
譜面に指定されたメロディーに静止することなく必死に指を動かし、全身運動をするようにペダルを踏む動作と共に身体を上下させ、最後まで演奏をやり遂げる覚悟でピアノと向き合った。
そして、約4分の演奏が終わり、響き渡っていた音が消えた。
それは、聞いていた女生徒にとっては一瞬の出来事だったのだろう、演奏が終わっても、呆然とピアノを演奏していた隆之介を凝視したまま静止していた。
隆之介は一曲を精一杯にやり切った余韻に浸りながら、女生徒の方に視線を向けた。
女生徒は両手を口に添えて声にならないのか、驚いた様子でこちらを見ていた。
「……どうだったかな? いつも一人で練習してばっかりで人にあまり聞かせたことないんだけど」
隆之介はなかなか気の利いた言葉が浮かばなかったが、少なくとも学校でピアノを演奏した経験がほとんどなかったこともあり、こう答えた。
「……す、すごいよ!! 葉加瀬太郎の情熱大陸だよね?! 今の……、そんなに上手に弾けるなんて、君って、もしかして……」
女生徒は突然立ち上がって、興奮気味に捲くし立てる。
それは仲間を見つけたようでもあり、怪物を目の当たりにしたようでもあった。
「でも、まだ雰囲気だけで全然上手に弾けないよ、手も小さくて指もなかなか届かないし……。あれ、僕のこと知ってるのかな?」
隆之介は女生徒のことを知らなかったので、申し訳なく思いながら聞いた。
「うん、噂に聞いてたの……、式見先生が、とってもピアノが上手な同学年の男子生徒がいるって……、それって、君のことだよね?」
「あぁ……、そうかも。式見先生ってたまにここにも来てるんだよね、それは聞いたことある。式見先生にはピアノレッスンをしてもらった時に演奏を聞いてもらったことあるんだ。うち、あんまり裕福じゃないから頻繁にピアノレッスンに一人でいけないんだけど、またおいでって先生は言ってくれたんだ」
隆之介は心当たりのあることを、とりあえず浮かんできたままに女生徒に伝えた。
「やっぱりそうなんだ……、私はね、四方晶子。式見先生にはお母さんからの勧めでピアノレッスンしてもらってるの。その時にね、君の噂は聞いたよ」
「そうなんだ……、それじゃあ、改めまして、僕は佐藤隆之介です。学校の中で話すのは初めて……だよね」
それは小学四年生になってようやく訪れた、晶子と隆之介の運命ともいうべき二人きりの邂逅だった。