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”小説”震災のピアニスト  作者: shiori


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第13章「雨とピアノの回廊を登って」2

 本番の時間が迫りくる中、控え室にある練習部屋に置かれたグランドピアノのピアノ椅子に私は座った。

 

 広い室内の中にポツンとそこに置かれて大きなピアノ。

 緊張していたのか、自分でもわかるくらいに心音が響いてきたが、椅子に座ると自然と集中することができ、落ち着きを取り戻すことができた。


 防音室に入ったことで雨音も、コンテスタントのピアノの音色も聞こえては来ない、私から発せられる音以外が、全て消されたような空間の中で、勇気を振り絞りピアノの鍵盤に指を添える。


 声を発して気持ちを伝えられない私が一番人に気持ちを伝えられる方法、それがピアノだから、私は勇気を出してもう一度演奏しようと思った。そして、こうしてピアノコンクールに挑戦しようと思ったのだ。



 私がここにいることを証明するために、これは果たすべき約束だと思った。


 心から感謝する、勇気をくれた隆ちゃんのためにも。


 今も私は生きているのだから。



(お父さん……、お母さん……)



 指を動き出す前に、両親のことが頭に浮かんで、心が締め付けられ、つい私は鍵盤を弾く手を止めてしまった。


”ご両親のことは残念だったね”


 隆ちゃんのお父さんにも最初に言われた、私はそれに”大丈夫です”と頷き答えた。

 果たしてそれは正解だったのだろうか、私の中でそれは本当に大丈夫なことなのだろうか。



”周りの音に敏感になりなさい、そうすれば今よりずっと音を身近に感じられるようになるわ”



 私へ向けて言った母の言葉だった。

 懐かしい、今でも鮮明に思い出せる。言われたのは5歳くらい、幼稚園の頃だったと思う。

 古い記憶だけど、母は一緒にピアノ椅子に座り、一つ一つ丁寧にピアノのことを教えてくれた、私にとって最初のピアノの先生だった。



”そうしたら、段々と心地いい音が自分の中に生まれてくるようになる。

 それが晶子のピアノの音になっていくわ。

 ピアノの音には人の心を癒す力がある、お母さんはそれを信じているわ。

 だから、晶子も見つけなさい、ピアノという楽器と友達になりながら、自分の愛する音を、そして、それを表現できるピアニストになりなさい”



 ピアノを愛する母の温かい言葉、そこには酔狂なまでにピアノという楽器に魅せられた、熱い情熱も込められていた。



”晶子にはそれができるわ、だって、私の娘なんだから”


 母は立派なピアニストであり、演奏家だった。


 私の尊敬するピアノの先生でもあり、多くの人をその演奏で魅了してきた。


 私は母に教えられたことをこれからも守れるだろうか。

 母の期待に……その気持ちに報いることができるだろうか。


 そんなことを一人考えていると、防音室の扉が開かれる音が響き、誰だろうと思い振り向くとそこには式見先生が立っていた。


「……練習のお邪魔だったかしら?」


 いつもの品のある声色で話しかけて来た式見先生の言葉を聞き、私は首を横に振った。


 私はそばに来てくれた式見先生を見て、今考えていたことを伝えようと迷わず譜面に鉛筆で”母のことを考えていました”と筆記した。


 先生は一瞬驚くような表情を浮かべたがすぐに平静に戻って口を開いた。


「それで、指が止まっていたのね。

 その気持ちはよく分かるわ、こんな時だものね」


 先生の言葉は否定ではなく肯定的なものだった。

 今更、母親のことを思い浮かべるような時ではない、普通はそう言ってしまうだろう。

 本番まで残された時間は僅かである以上、少しでも感覚を忘れないように演奏をするのが常識だ。

 でも、それが出来ない私のことを先生は否定しなかった。


 式見先生は遠い目をしながら、恐らく母のことを思い浮かべながら言葉を続けた。


「私にとっても晶子のお母さんは尊敬する演奏家であり、ライバルだった。いつも届かない目標だった。

 技術的なもの以上に、精神面でもお手本になるような、若々しくて、情熱的な感性まで備えた心地いい演奏をする女性的な演奏家だった。


 それはなろうと思ってなれるわけじゃない。

 彼女のカンタービレは、誰もが評価するものだった。


 だから、あの人のようになりたい、演奏してやりたいという気持ちが湧き上がってくるのはとても自然な事よ。

 でも、確かにあの人が母親というのはなかなか高い目標だから不幸なことかもしれないわね」


 丁寧に一言一言を続けながら、最後には苦笑いを浮かべていた。

 その姿は思い出を語るようであり、感傷的なものが含まれていた。

 悲しいと感じることを、忘れてはいない、先生はそんな人だった。



”わたしは、どうすればいいですか?”



 そう、私は譜面にまた書き出した。

 私がここから一歩踏み出すための言葉を、それを先生である式見先生からもらえれば、再びピアノと向き合える気がした。



「晶子はお母さんに言われた言葉を忘れていない、それでいいのよ。

 思い出は思い出のまま、ずっと自分の中で忘れずに取っておいていいのよ、そして、時々はそれを思い出しても。


 あなたはずっとあの人の娘さんなんだから。


 だから、お母さんの言葉を信じて自分に出来る演奏をすればいいのよ。

 

 会場のみんなも、隆之介君だって、私だって、それを待ってる。

 晶子の奏でるカンタービレを、みんな待っているのよ」



 そうか……結果なんてどうでもいいのかもしれない。

 

 ただ、私を待ってくれている人のことを想って演奏をやり遂げさえすれば。

 

 たったそれだけでいいのだ、たったそれだけで母の気持ちに報いることができる、後悔しなくていいのだ。



”ありがとうございます。わたし、がんばってみます”



 私は話しを聞いてくれた式見先生と天国で私を見守る母へ向けて、譜面に言葉を残した。

 譜面に書かれたその言葉を見た式見先生は満足そうに、安心したような表情を浮かべた。



「良かったわ、きっとできるわ、晶子なら。

 あなたのプログラム、楽しみにしてる。

 客席で聞いているから、精一杯楽しんできなさい」



 その言葉だけを言い残して、式見先生は控え室を出ていった。

 再び静寂が戻る、私は目の前のグランドピアノに向き直った。


 部屋に残された私は指に力を込めて、ゆっくりと鍵盤を指で押し込み、一音一音耳に届く音を確かめ、今一度自分に”大丈夫だ”と言い聞かせながら、ピアノを演奏していた母のことを思い浮かべながら、気持ちを込めた演奏を弾いた。 


 そして、15分も演奏すれば、自分の中にあった違和感や不安のようなものは完全に拭い去ることができた。


 雨の音に気を取られていた自分からようやく解放されたようだった。



”これなら大丈夫、ありがとう先生、お母さん”



 心を殻にして残りの時間を一心不乱に弾き続ける。


 テンポが速くても、安定したリズムでミスなく演奏できるよう、何度も確かめる。

 

 弾いていて、音を聴いていて改めて思う。


 私はピアノが好きだ、この旋律を奏でているだけで生きている実感を感じられる。


 だから、今日の演奏を最高に楽しもう。


 今日の演奏をやり遂げれば私はもう振り返ることはない、私はスタッフに出番までの時間が迫ってますと呼び出されるまで、ただ、夢中で時間の許す限り練習を続けた。

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