第11章「二人きりの海へいこう」3
砂浜に到着すると晶ちゃんは広々とした空間に出たことで開放感を実感しているのかはしゃぎながら走り回っていた。
サラサラなロングヘアーの髪をCMで見るように靡かせながら僕の見る前で笑顔を振りまいている。
疲れもあるだろうに、晶ちゃんは楽しそうだ。
でも、ふと考えを巡らせると、その健気な姿がやせ我慢のようにも見えてしまう。
辛いことを覆い隠しながら、気を張っているような。
それは恐ろしい想像で、僕は現実を見るのが怖くなる。
いつまでもこの笑顔が消えないようと、願ってやまない。
ただ、安心できることは、晶ちゃん自身がこのピアノコンクールの結果を僕と違って何も気にしていないように見えることだ。
僕と一緒にいられるから本選までいけたことは嬉しいと言っているが、晶つちゃんにはあまりに欲がない。
その自然体なところも彼女の魅力ともいえるが、コンテストである以上勝負の世界でもある。
採点されることを鑑みれば、コンテスタントの中で本当に実力をある人に対し、それ相応の評価をすることになるだろう。
もちろん、明日どういう結果を迎えることになるか分からないが、晶ちゃんが一体どんな演奏を披露するのか、そこは心配でもあり、興味のあるところだった。
もしかしたら僕の想像しないようなプログラムを考えているかもしれない。
いや、むしろ晶ちゃんだからこそ、そんな独創的なプログラムを僕は期待してしまう。
4年前から晶ちゃんは成長した、純粋で無垢だった頃とはもう違う、ピアノという鍵盤楽器の可能性を理解し、しっかりと考えられるようになった。
明日でこのピアノコンクールに奔走した日々が終わってしまうのは寂しいけど本当に明日が楽しみでならない。
どんな結果になるかは未知数だが、大切な一日になることは間違いなかった。
(―————隆ちゃん、海だよ!!)
ふいに、広大な海の景色に混じってそんな陽気な声が聞こえた気がした。
どこまでも続く海岸線、一面に広がる青い海、すぐ近くから聞こえてくる波の音。
そのどれもが本物で、潮の香りが漂ってくるこの光景は夢や幻ではないとはっきり知覚できる。
だけど、波の音に耳を澄ませながら僕は考えてしまう。
晶ちゃんの片耳は音を拾うことは今だにないし、声も出せないままでいる。
本当にこのままでいいのだろうか、晶ちゃんはこんな状態のまま成長していくのだろうか、これを幸せなことだと、今の生活を幸せなものだと受け入れてしまっていいのかと。
分からない、分かってあげることができない、晶ちゃんはこんなにもはしゃぎ回って笑顔でいるのに、今もまだ信じることが僕は出来ない。
本当は全部取り戻してあげたいんだ、晶ちゃんの大切なものを。
でも、もうどうしてあげればいいのか分からない、これ以上、してあげることが思いつかない。
どうして、こんなに力不足を感じてしまって、やるせなくて、悲しいのだろう……。
(―———隆ちゃん、大丈夫?)
ぼうっとしたまま立ち尽くして動けなくなってしまった僕を心配して、晶ちゃんが駆け寄ってくる。
また幻聴が聞こえた、晶ちゃんの声がいつからか頭の中で再生されるようになった。
僕はどうかしているのだろうか? 分からない、でも、彼女の表情からまるで言葉が読み取れるかのようだった。
(―————隆ちゃん、泣かないで)
まただ、聞こえるんだ……晶ちゃんの心配そうにしている顔が目の前にあるのに、僕の目からたまらず大粒の涙がこぼれてくる。
どうしてこんな気持ちになっているのだろう、せっかく海にやって来たのに、まるで分からない。
「ごめん、ごめんよ、晶ちゃん、俺……俺……っっ!」
頭が真っ白になりながら、絞り出すように声を出すと、何故か”俺”と自分のことを言っていた。彼女の前でそんな風に言った事なんてなかったのに、今更、勝手に何の心変わりなのだろう。
心配そうに不安定な僕を見つめていた彼女がギュッと僕のことを抱きしめる。
彼女の優しい慈愛の心に包み込まれる。僕は温かい光に包まれるように、彼女のぬくもりに覆われ、弱気なった感情をそのまま癒してくれた。
(―—————悲しくなんてない、痛くなんてない、隆ちゃん、いたいのいたいの飛んでけ!!)
そんなの違う、この言葉はただ自分が許されようとしているだけの幻聴、都合のいい僕の妄想だ。だから、ちゃんと僕は伝えなきゃ、謝らなきゃっっ!!
「ごめん、苦しいのは晶ちゃんなのに、辛いのは晶ちゃんのはずなのに、僕がおかしいんだっ。
一緒にいれば、いつか身体も良くなるって、それで晶ちゃんはもっと幸せになれるって、そう思ってたんだ……っ。
でも、僕が一緒にいても、何の役にも立ててない。
声が出せないのも、片耳が聞こえないのも精神的なものだから、晶ちゃんが理想的な日常を取り戻すことで自然と良くなっていくんだって、そう、信じて来たんだ……。
それなのに、何も力になれなくて……っ。
晶ちゃんと一緒にいると僕はそれだけで幸せで、恋人としていられるのは、もっと幸せで、デートをするのもキスをするのも、たまらなく嬉しくて、いつも満たされている自分がいて、でも、それだけなんだ……僕ばっかりが満たされてるだけなんだ……。
だから、ゴメン……晶ちゃんっっっっ!!!!!!!!!」
涙声で僕は溜め込んだ感情を全部吐き出していた。
もう、後悔しても遅い、全部この口で言ってしまった。
楽しい日々の中で心の内に抱えていた、不安や焦燥を、全部伝えてしまった。
こんなことを本選前に言ったって迷惑にしかならない、それに晶ちゃんが自分が普通でないことを自覚して苦しむことになるだけなのに、全部感情に任せて言ってしまったっ!!
力を失くし、項垂れそうになる僕。
だが、後悔した先に待っていたのは、全然想像していたものとは違っていた。
晶ちゃんは、次の瞬間何を思ったか、僕の両頬に手を当てて、自分の顔に、僕の顔を向けさせていた。
波の音がする、海のすぐ近くの砂浜で見つめ合う僕ら。
僕は目を見開いた。自分にはもったいないぐらいの綺麗な彼女の顔が、宝石のような瞳が目の前にあった。
”私のことをちゃんと真っ直ぐ見て”と、そう伝えたいことはこんな僕でも分かった。
そして、そのまま彼女は口を開いた。
「”―—————ぜんぶ、わかってるよ、りゅうちゃんがわるいんじゃない”」
僕の顔を正面に向かせて、彼女がしたのは口話だった。
僕は集中して彼女が一音ずつ口を動かす姿を凝視するように見て、ようやくその言葉の意味を理解することができた。
そして、そこで終わることなく、続けざまに彼女のピンク色の唇は動き出し、引き続き途切れることなく、口話を続けた。
「”―――わたしは、ほんとうにしあわせだよ。だから、きずつかないで。
わたしは、だいすきなりゅうちゃんといっしょにいられる、だからしあわせ。
いっしょにいてくれて、ありがとう、あいにきてくれて、ありがとう”」
そうか、よく分かった。彼女はその胸の内でもたくさんのことを考えて、たくさん伝えたいことがあったのだ……僕はやっと晶ちゃんの気持ちに気付くことができた。
「ありがとう……僕も幸せだよ。こうして一緒にいられて、海まで見ることができて。だから、許してっ!」
泣きながら絞り出した僕の言葉を聞いた晶ちゃんはギュッと胸の中に僕を抱き入れていた。
温かく柔らかい、母性の詰まった場所に、僕は包み込まれた。
そうして、思っていたよりずっと大きくて柔らかい胸の感触をワンピース越しに感じながら、波の音を聞いていると、時は流れ、気づけば安心するように涙も止まり、気持ちが落ち着いた頃にはすっかり陽が落ち始めていた。




