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”小説”震災のピアニスト  作者: shiori


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第9章「私たちを繋いだ旋律」2

 いざピアノに手を伸ばそうするが怖くなって静止してしまう私を、隆ちゃんは自分の手で柔らかく握った。


 ラフマニノフほど大きな手じゃないけど、彼の手も4年前より大きくなって、すっかり私よりも立派になった。


 彼の手は白くて綺麗な手をしていて、ゴツゴツとした感じの男の人の手じゃなくて、滑らかな手をしているから、握られると優しいぬくもりを感じた。


「晶ちゃんの手は細く長くて綺麗だね」

 

 薄ピンク色の爪の方までまじまじと彼は見つめながら言った。

 見つめられると恥ずかしくなって体温まで上がりそうになって、つい手を離してしまいたくなるけど、私はグッと我慢した。



「大丈夫だよ、僕が隣にいるから。

 さぁ、信じて弾いてみよう、”出会い”と”別れ”に奏でられた僕らの思い出をもう一度」


 彼が私の手を導いて、そのまま白と黒の固い鍵盤の上に指を乗せてくれる。


 鍵盤に触れただけで私は目を覚まし、意識が研ぎ澄まされたように視界が鮮明になり、トクンと胸の高鳴りを感じた。


 あの日の、卒業式の日に見た桜の花びらが視界に広がり、この身に風を受けているような錯覚を覚えた。


(できる……私はできる……信じるんだ、彼の言葉を)


 自分の音楽を取り戻そうと少しずつ指に力を込めていく。

 怖くない、自分なら弾けると、今からでもきっと取り戻せるはずと暗示をかけながら。


 最初は震えていた手指も、もう完全に震えは止まっていた。


 私は今、思い出の続きを奏でる、自分の意志で。

 たとえ、満足な演奏ができなくて、それでもいいと。


 そして、流れるパッヘルベルのカノン。

 しなやかに流れる指がかけがえのない優しく繊細なメロディーを奏でる。


 思い出の続きへと、ピアノの音色が家中に鳴り響く。


 片耳しか聞こえない私にも確かに聞こえる私のピアノの音。

 懐かしいくらいに、何度も聞いた愛おしい音楽。

 鍵盤楽器で奏でるカノンは実に切なく繊細で、瑞々しい少女の吐息のようだ。


 カノン進行とも呼ばれる和声進行で奏でられるとゆったりとメロディーは人の心を癒すように、優しく染み渡る。


 私も隆ちゃんも、何かの節目にこの曲を聴くたびに、感慨深い大切な何かを共有してきた。


 何にも代えがたい5分間の演奏を終えると、スッと身体から力が抜けていき、私は隣で聞いていた彼の方にもたれ掛かった。



「やっと、会えたね、晶ちゃん……」

 

 ミス一つなくやり切った私を隆ちゃんは優しく支えながら言った。


 ”やっと、会えた……”


 つまりは私たちは今この瞬間、本当の意味で”再会”を果たしたのだ。お互いのピアノの音色を聞き、確かめ合うという大切な行為を経て。


 この日、ヨハン・パッヘルベルのカノンは、私たちにとって、”出会い”と”別れ”と、”再会”の曲になった。



「付いてきてくれるかな?」


 耳元で囁くように言ったその言葉で私の心が揺れる。

 身体が自然と熱を帯びて疼いてしまっているのが分かった。


 彼は優しく言った、今度は一緒にピアノを弾こうと。


 あの日、いっぱい練習してみんなの前で弾いた、とても懐かしい思い出のピアノデュオを。


 私はピアノが大好きで、隆ちゃんのことが大好きで、一緒に演奏したあの頃の時間がどれだけ幸せな時間だったかを、これでもかというほど思い出した。


 私は溢れてくる衝動のままに強く頷いて見せた。


 私の心は彼の前でどんどんと素直になっていく、こんな風にさせてしまう彼はなんて罪な男だろうと、私は思わず笑っていた。


 互いに手を鍵盤に添えて、視線と息を合わせて二人の演奏が始まる。

 ゆったりと静かに始まった演奏は心地よさそのままに、段々と激しいものに変わっていく、それはあの日と同じように。


 私たちは、卒業式の日経験した演奏の記憶を思い出しながら、今この瞬間の演奏に入り浸っていった。


 バッハもチャイコフスキーもモーツァルトもベートーヴェンだって、もちろん彼の大好きなラフマニノフだって、ずっと二人一緒なら疲れも忘れて、飽きることなく弾き続けられる。

 そんなことを、私は自然と考えていた。



 なんてことのない、大切な日常。


 毎日のように、時間を忘れて演奏したまだ小さな子どもだったあの頃。


 一緒にピアノを弾くことの幸せを噛みしめながら過ぎ去っていった日々。


 忘れられない演奏をして、忘れられないキスをして、大切な約束をして。



 ―――長い時を経て、私たちはもう一度繋がった。



 こうして、ピアノの演奏を日が暮れるまで続けながら、身体に触れるように、心に触るように、ただ満たされていく時間が途切れることなく続いた。



 私はこの日、彼と演奏している間だけ、ほんのその間だけ、自分が声を出せないことを忘れて、その憂鬱さを意識することなく夢中でいられることができた。


 それは、私にとって奇跡のようであり、希望の始まりだった。

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