第1章「会いたい人」3
日本に向かって上空を飛翔する飛行機の中で、隆之介は空調の効いた機内であったためにひざ掛けをしてゆっくりと意識を閉じた。
四方晶子のことを想いながらまどろみに包まれていく隆之介は完全に眠りの中に落ちて、夢の世界へと導かれていく。
導かれた先、それは妄想の世界ではなく過去の思い出の記憶だった。
そう、それは晶子と出会った日の記憶、隆之介にとって人生を変えた大切なはじまりの日の記憶だった。
下校途中、忘れ物に気付いた隆之介は引き返し、部活動をする生徒や教職員しかいない校舎に入り、自分の教室を目指して歩いた。
「はぁ……、忘れ物をするなんて抜けてるなぁ……」
陽が落ちるのが早くなった秋空の日、カーテンの付けられた教室の窓の向こうのに見える空は、段々と陽が落ち夕陽となって、朱く燃え盛るように空の色を変えていた。
隆之介は机の中に置き忘れていたピアノ演奏用の譜面を回収し、早々に教室を出た。後は職員室に戻ってお詫びをしてから教室の鍵を返すだけだった。
「あれ……、ピアノの音……?」
教室の鍵を掛けた直後、唐突に聞こえて来たのは、日々の日常の中で慣れ親しんできたピアノの音色だった。
その音色は放送室から流れるようなCDなどの録音された音響ではなく、音楽室などから聞こえてきている生音響であった。
こんな時間にピアノを弾いている生徒がいる……、そう直感的に隆之介は感じた。
「一体、誰だろう……」
教室の鍵を閉めるまでは雑音のように聞こえて来ていた運動場で声を出していた生徒達の声も、どこかから聞こえてくる心地良いピアノの演奏の影響で一気に脳内から掻き消されてしまった。
不意に予想外に聞こえてきたにしても、あまりにも自分の音楽性までも魅了する心地の良い旋律に隆之介は自然とその音に導かれるように歩みを進める。
もっと近くで聞いていたい、一体誰がこんな演奏を聞かせてくれているのか、その正体を知りたいと、足が勝手に動いてしまうのだった。
隆之介は魔力に魅入られたように、音のある方へ向かって歩む。
(凄い……こんなに心の奥深くに染み入るように響いてくるパッヘルベルのカノンは初めてだ……)
聞こえてきたのはパッヘルベルの代表曲であるカノンだった。
元々は三本のヴァイオリンで奏でる通奏低音の曲だったが、長く親しまれる中で様々なアレンジが制作された。
作曲された時期は未だに不明とされており、一説にはヨハン・クリストフ・バッハの結婚式の際に書かれたとも言われている。
瑞々しい少女の歌声のように、優しさと純粋さを持って、ピアノを弾き鳴らす可憐な少女の姿を自然と脳内で浮かび上がらせてくる。
隆之介は初めて感じた高揚感を覚えながら、階段を昇り、校舎の4階まで迷うことなく進んだ。
(この音は……、第二音楽室からか……)
4階の校舎には第一と第二両方の音楽室があるが、聞こえてくるのは少し距離の離れた第二音楽室からのようだった。
第二音楽室は吹奏楽部の部活動でも使用せず、上級生の音楽の授業くらいでしか使用されることはないが、そこにグランドピアノが置かれていることを隆之介は知っていた。
次第に早足になりながら迷うことなく歩みを進め、近づいてくるカノンの優しくも切ない音楽が響き続ける中、隆之介は第二音楽室の扉の前までやって来た。
テンポの良い快活なメロディー部分に入ると、一層、気持ちが高ぶり、出会いの予感に心が震えた。
この扉の先に、このグランドピアノの鍵盤を叩き、美しい旋律を奏でる人物がいる、扉に手の掛けた手が震え、胸が苦しいくらいに高鳴る。
完全に、このピアノの音の虜になり、隆之介は魅入られていた。
”真相を知ってしまう怖さと、早く知りたいというという欲望”とが同時にやってきて、気が狂いそうになる中、隆之介は意を決して扉を開いた。




