第7章「届けたい想い」4
式見先生は気を遣ってくれたのか夕食の買い出しに行くといって、ちょっと前に家を出ていて、今、この家は私と隆ちゃん二人きりだった。
「懐かしいね。このピアノも、この場所も、4年前と変わらない」
隆ちゃんは急ぐことはないという調子で懐かし気に話しかけた。
「“うん、でも、隆ちゃんは大人になった。こんなに大きくなって、不思議な気持ち”」
「晶ちゃんも、綺麗になってビックリした」
お互いの視線が重なって微笑むとあの頃に戻ったかのようだった。
「“本当かな? やっぱりそんなこといって、向こうで好きな人見つけたりしてない?”」
私は誉めてもらえたのが嬉しくて、少しからかいたくなって、文字を入力してすぐさま再生させた。
「まさか、晶ちゃん以上の人なんていないさ。
それより、演奏聞いてくれる? 聞いてほしいんだ、再会を祝して」
なんだ……、隆ちゃんなのに、隆ちゃんのはずなのにこんなことも言うような人になっちゃったんだ……、不思議な気持ち、私のことを想ってくれるのは嬉しいのに、すっかり大人になってしまっている。
こんなに大人になってしまったら、そのうち私でも気付かないような嘘を付かれるんじゃないかと、悪いと思いつつも考えてしまう。
「”うん、少しだけ深呼吸させて。私、本当にずっとクラシックを聴いてないの”」
胸の鼓動が収まらなくて私がそう伝えると、隆ちゃんはちゃんと待ってくれた。
不安はずっとあった、隆ちゃんの演奏を聞くことができるのは楽しみなことであっても。
クラシックを聴くのは怖くて、ピアノに触れるのはもっと怖くて、激しく呼吸が波打つように苦しくなってしまうのだ。
震災の後遺症、今もなお残り続ける恐怖心。
片耳の聞こえない、声も出せない、不自由な私。
もしも、聞こえてくる音が私のイメージと違ったら……、イメージ通りに指が動かなかったら……、ピアノが私を拒絶してしまったら……、そんなことを考えると現実と向き合うのが億劫になった。
”でも、隆ちゃんはこんな私を救い出そうとしてる”
その男らしい強い想いは、ひしひしと感じるから、だから、私は懸命に逃げずに向き合う。
今日、ここで向き合わなければ本当にピアノと離れたままになってしまう。
そんなのは本当は嫌でたまらないのだ、ピアノはずっと寄り添ってくれていた、私のかけがえのない友達だから。
「“うん、もう大丈夫。隆ちゃんの気持ち、信じさせて……、お願い、私に聞かせて、隆ちゃんの成長した美しい旋律を”」
二人の呼吸が合わさるように、待ちに待った瞬間が訪れる。
「じゃあ、僕の大切な人、晶ちゃんのために、心を込めて弾くね。聞いてください、————僕の演奏を」
まだ私は音楽を聴くのが怖いけど、信じてみたくなった。
”私のために”弾いてくれると言ってくれるのだ、こんなに嬉しいことはない。
二人だけの部屋に、隆ちゃんの奏でるメロディーがゆったりと流れる。
心に沁み行くように、その指先に込めた想いが力強い演奏から痛いくらいに私に伝わってくる。
(隆ちゃんのラフマニノフだ……)
どれだけ練習を重ねてきたのだろう、迷いなくスラスラと流れるように指が正確に動作を行い、何度も聞いたことのある、見知ったメロディーが耳に届けられた。
『ピアノ協奏曲第二番』、第一楽章から第三楽章までで構成されたラフマニノフの代表的なピアノ協奏曲だ。
多くのラフマニノフのピアノ曲と同じく、ピアノの難曲として知られ、きわめて高度な演奏技巧が要求されることで有名であり、長い歴史の中で愛され続け、多くのピアノコンクールでも使用されている。
(ちゃんと……、聞こえる、私にも、隆ちゃんの弾く、ラフマニノフが……)
ギュッと胸が締め付けられるような、深い感傷に私は包まれた。
そう、ずっと思い出深い形で記憶の中に残っていた。
卒業式の次の日、隆ちゃんの家で私はこのピアノ協奏曲を聞いた。
私たちが離れ離れになった日、最後に会った、あの時に。
あの時も同じような真剣な表情で、ピアノに向き合う隆ちゃんの姿を私は確かに見ていたのだ。
彼の誇りを懸けて戦っているような勇ましい雄姿、食らいつくような指さばきで難曲と向き合う彼の姿を私はずっと覚えていた。
そして、彼は4年間の時を経て紛れもなく成長した。
あの頃とは全然違う完成度で奏でられる名曲。
堂々としていて、姿勢が乱れることなく、指が理想的なリズムで譜面通りに追いついていっているのがはっきりとわかる。
本当に血の滲むような努力を、私の知らない遠いウィーンの地で彼は繰り広げてきたのだろう。
私は成長した彼の姿にすっかり酔いしれ、釘付けとなっていた。
自分に厳しい彼の、心を込めた全力の演奏。
プロ顔負けのその演奏は確かに、誰にも負けたくないと、ピアノコンクールへと本気で向かおうとしている男の姿そのものだった。
隆ちゃんは第一楽章の壮大なクライマックス部分の演奏も途切れることなくやり切って、演奏を終えて見せた。
ピアノから手を離した瞬間、隆ちゃんはゆっくりと息を吐いた。
十分な達成感を感じているだろうけど、ピアノを演奏するのは想像以上に疲労が溜まる、体力のいる鍵盤楽器だ。
それをよく知る私は、彼の心情がよく分かった。
「これが、今の僕がいるところだよ」
私の方に視線を向けて、演奏を終えた彼が最初に発した言葉は、爽快だった。
駆け抜けて来た4年間で辿り着いた地点、それが今の演奏なのだ。
私は息を呑んで、身体が固まっていたが、隆ちゃんの言葉にようやく我に返って、タブレット端末を膝に置いて、笑顔で拍手した。
「ありがとう、満足してくれたかな?」
私は彼の言葉に瞳を潤ませながら大きく頷いた。
そこから私は続きを聞きたいとリクエストをして、第二楽章、そして第三楽章も聞かせてもらった。
この貴重な時間に片耳しか聞こえないのは物足りないけど、それでも私はあっという間に成長した彼の演奏に聞き入ってしまって、クラシック音楽を聞くことの抵抗感もないまま、彼の世界に引き込まれていった。




