私のエッセイ~第百四十弾:小説『坊っちゃん』にからむ、赤シャツ考
皆さん、こんばんは! ご機嫌いかがですか・・・?
今宵は、皆さんもよくご存じの夏目漱石先生の名作『坊っちゃん』から、物語の登場人物のひとり、『赤シャツ』氏についての、ちょっとした分析・考察・評価をしていきたいと思います。
よろしくお願いします。
まだこの作品を未読の方も、もしかしたらおられるかと思うところではありますが・・・まず最初に、その『赤シャツ』なる人物というものがいかなる人なのか、それを作品中の文章から抜粋し、彼について触れられている文章を引っぱってまいります。
・・・これでとりあえずのところは、一応の、彼の「人物像」「なり」といったものは、いったんイメージとして定まるかとは思います。 m(_ _)m
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以下、『坊っちゃん』本文よりの抜粋です。
「挨拶をしたうちに教頭のなにがしというのがいた。これは文学士だそうだ。文学士といえば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のような優しい声を出す人だった。もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルのシャツを着ている。いくらか薄い地には相違なくっても暑いにはきまってる。文学士だけに御苦労千万ななりをしたもんだ。しかもそれが赤シャツだから人をばかにしている。あとから聞いたらこの男は年が年じゅう赤シャツを着るんだそうだ。妙な病気があったもんだ。当人の説明では赤はからだに薬になるから、衛生のためにわざわざあつらえるんだそうだが、いらざる心配だ。それならついでに着物も袴も赤にすればいい。」
「君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味のわるいように優しい声を出す男である。」
「すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議をした。赤シャツはそいつはおもしろい、われわれはそう言おうと賛成した。このわれわれのうちにおれもはいってるなら迷惑だ。おれには青嶋でたくさんだ。(中略)あの岩の上に、どうです、ラファエルのマドンナを置いちゃ。いい画ができますぜと野だが言うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味のわるい笑い方をした。(中略)マドンナというのはなんでも赤シャツの馴染みの芸者かなにかのあだ名に違いないと思った。馴染の芸者を無人島の松の木の下に立たして眺めていれば世話はない。それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。」
「赤シャツはホホホホと笑った。べつだんおれは笑われるようなことを言ったおぼえはない。(中略)
赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃしようがない。清はこんなときにけっして笑ったことはない。大いに感心して聞いたもんだ。清のほうが赤シャツよりよっぽど上等だ。」
「赤シャツは琥珀のパイプを絹ハンケチでみがきはじめた。この男はこれが道楽である。赤シャツ相当のところだろう。」
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・・・まぁ、けっこう「余計な情報」も盛り込んでしまいまして、申し訳ございません。
このように、『赤シャツ』なる人物は、かなり鼻持ちならない、英語でいうところの「スノッブ」また「嫌味のかたまり」のような、ウルトラキザ野郎といった印象を受けます。
のみならず、作中では、主人公「坊っちゃん」の、『蕎麦屋通い』『団子屋通い』を「精神的娯楽とはいえない」として禁じ、古賀という英語教師のいいなずけであった、通称『マドンナ』嬢を、よこはいりして手なづけて、自分のフィアンセにしたあげく、その「邪魔者」である、うらなりこと『古賀英語教師』を遠い僻地の延岡に「策略」をもって転勤させ、その行為に抗議・談判した、山嵐こと「堀田教師」をもケンカ騒動がらみで辞職に追い込んで、さらに『マドンナ』との交際と平行して、陰でこそこそ『馴染の芸者』とチチクリ合う・・・そういった卑怯で下劣なヤカラとして、読者の皆様は認識されているかと思います。
(※) ちなみにこの、「遠山のお嬢さん」こと『マドンナ』なる女性・・・作中では、主人公「坊っちゃん」によって、以下のように解説・評価がなされていますね。
「ところへ入り口で若々しい女の笑い声が聞こえたから、何心なくふり返ってみるとえらいやつが来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五、六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などができる男でないからなんとも言えないがまったく美人に相違ない。なんだか水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握ってみたような心持ちがした。」
どの書籍におきましても、この『赤シャツ』という教頭先生は、「悪と嫌味の権化」「キザ野郎及び卑怯者の店頭見本」「究極の女たらし」として評価・解説されてきました。
はっきり言いまして、彼を「擁護」する意見なんぞは、これまでまったくの皆無だったわけなのであります。
私自身も、強く、そう感じていました。
ところがですね・・・そういった過去の「定説」というものを根底からくつがえすような意見というものが出てきたんですよ。
以下に紹介しますが・・・正直、初めてですね、こんな斬新な「視点」なんて。
これを読みましてね・・・私、『赤シャツ教頭先生』への印象・評価というものが、ある意味「180度変わってしまった!!」んですヨ。
さらにいえば、「赤シャツさん、ワタクシ、あなたを見直しちゃいましたッ! ブラボー、赤シャツ!!」ってなトコですか。
では、それを皆様に引用・紹介しながら、このくだらんエッセイをシメたいと思います。
ここまでお読みくださいまして、ありがとうございました。
m(_ _)m
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・・・以下は、作家の『ねじめ正一』氏によります、小説「坊っちゃん」の解説文の抜粋であります。
では、どうぞ。
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さて、『坊っちゃん』は正義感からできている小説である。
私みたいなボンクラな人間でさえ小学校六年のときに悟ったことを、主人公の坊っちゃんは二十三歳にもなりながらまだわかっていない。わかっていないのは山嵐も同様で、この二人が正義感を振りかざし、ワルモノの赤シャツと野だいこをこてんぱんにやっつける。
だが、ちょいと立場を変えると、坊っちゃんと山嵐の正義感はまことにあやふやでいい加減だ。
たとえば、二人は赤シャツがうらなりの許婚のマドンナをとったというが、事実ははたしてそうか。
名家のひとり息子というだけで、アダ名のとおり男前は蒼むくれ、気も弱ければアタマもあんまりよさそうではないうらなり君を、マドンナが心から愛していたかというと、私はどうもそうとは思えないのである。
四国の田舎町では、ちょうどいい男もいないし、親のいいつけでしぶしぶと、というあたりがマドンナの本心ではなかったろうか。
そこへ赤シャツが登場した。
赤シャツは東京帝国大学出の文学士様である。
教頭である。
知識があって話題は豊富、おまけに夏でも誂えの赤シャツを着込んでいるという、なかなかの洒落者だ。
おまけに赤シャツは、マドンナをしゃにむに愛した。
許婚の存在をものともせず、積極的にマドンナに近づいた。
マドンナならずとも、女性なら、自分を愛しているのかいないのかもはっきり言えないうらなり君より、赤シャツのほうに魅力を感じるのは当然である。
さらにうらなり君のただひとつの取り得であった財産がなくなってしまったとなれば、これはもう、勝負は決まっている。
いっぽう赤シャツだって、弁護しようと思えばいくらだってできる。
マドンナと赤シャツは、いまや相思相愛である。
二人の愛を成就させるためには、うらなり君とマドンナとの縁談を破棄してもらうしかない。
だが、なにせ狭い町だから、こっちから縁談を破棄すれば、マドンナはつらい思いをするだろう。
またマドンナがそれに耐えたとしても、もと婚約者が別の男といっしょになるのを見せつけられるうらなり君が、こんどは気の毒だ。
ならば教頭の立場を利用してうらなり君を遠くへ転任させたほうが、マドンナもうらなり君も傷つけずにすむ・・・赤シャツはたぶんそう考えたのである。
芸者と遊んだことも、愛するマドンナを神聖視して指一本ふれない、その捌け口が芸者に向かったとすれば、いちがいに責められない。
以上。
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追記です。
この『坊っちゃん』の裏話的なものも、ここで紹介させていただきますね。
作家の『岡崎義恵』様の解説より抜粋です。
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主人公の「坊っちゃん」は漱石自身のように見えるが、違っている点がある。
江戸っ児をもって任ずる若い教師が田舎中学で不平な日を送るということや、それが一本気の純な性格で、欺瞞にみちた社会に愛想をつかすことなどは作者そのままといってよいが、漱石は物理学校の卒業生ではなく、赤シャツと同じ文学士で、月給も坊っちゃんのように四十円ではなく、八十円という破格の高給であった。
漱石の赴任した学校は教師と生徒の折り合いもよく、何も事件らしいものは起こらなかったし、漱石は大変尊敬されており、子規と同宿して俳句に心を寄せたりしている。
その上松山に赴任した年の暮には東京へ帰って、後の鏡子夫人と見合を済ませている。
これは、坊っちゃんというよりも赤シャツというべきではなかろうか。
(中略)
そうしてみるとこの作では、漱石は自身の中の赤シャツ的要素はこれを悪い方へ極度に誇張し、坊っちゃん的要素は同情的に取り扱っているということができる。
以上。