学園の木の下で
春休みの第一日目にふさわしいよく晴れた朝、亜紀さんとその姉・真紀さんの手による本式の英国式朝食をすませると、学帽に詰襟を着込んだ僕は麻里さんの運転する赤いフェアレディZで古町の家を出て、関屋のハリス女子へと向かった。
「矢口刑事から来た情報によると、蓮見は数少ない学生寮組だそうでね。おそらく大森も同じ口で間違いないと思うんだが……出たとこ勝負、だな」
Zの運転席で、小刻みにギアを変えながら進む麻里さんの言葉に、僕は口を挟む。
「どうして学生寮組だと思うんです?」
「話の最中、彼女やけに時間を気にしてたんだよ。ラッシュアワーなら電車やバスの本数もあるだろう? そうなれば――」
「なにかしら当番があるだろう寮生だ、と、そういうことになるわけですか。――キツそうな性格でしたけど、何してるんでしょうね。風紀委員会とかだったりして?」
「だとしたら、ますますわたしが一番嫌いなタイプだね。教師の威光を笠に着る、鼻持ちならない連中だよ……」
「へえ、じゃ、あの子とは真逆のタイプか――あっ」
自分で口にしておいて、すっかり弱気な彼女のことを麻里さんに伝え損ねていたのに気づき、僕は血の気の引くのが分かった。
だが、おそるおそる事情を打ち明けると麻里さんは怒りもせず、役者がそろってきたね、と満面の笑みで返した。
「気の強い大森に、謎の気の弱い生徒――。まあひとつ、手始めに気の弱い困り眉の子からあたりをつけてみようか。ちょうどよく、我々の前にそのご本人が現れたようだよ……」
ハリス女子へつづく歩道の上、部活の練習か何かで来ているらしい生徒たちの列を指さす麻里さんにつられて、僕は車内いっぱいに響く大声を上げてしまった。
見覚えのある後姿が、マフラーの中に首をすくめて小さな鞄を下げ、子リスのように歩いているのだ。
「どうしましょう、麻里さん」
「寒い中歩かせちゃ悪い、送っていこう」
路肩へぐいとZを寄せて、軽くクラクションを鳴らすと、麻里さんは一七〇近い背丈を助手席の窓からのぞかせて、
「おはよう。よかったら乗ってかないか?」
柄にもなく、ナンパ師のようなことを言ってのけた。相手は最初、どこの誰だろうと目をぱちくりさせていたが、
「音祢宮先生ですのね。それとそちらは……」
「助手の野間です。どうぞ、入れ替わりますから……」
と、僕と入れ替わりに助手席へ収まり、話を聞くがてら、敷地を余分に一周する形で校内へと入ることになった。そこでようやく、僕と麻里さんは彼女――中等部の西野美也子という生徒だった――の口から、昨日のいきさつを知ることが出来た。
「――ほほう、するとあなた、事件の直前に大森くんを目撃しているんですか」
ハンドルを回しながら、麻里さんは西野さんの証言を興味深く聞いている。
「そうなんです。忘れ物を取りに出た帰り、西棟の屋上へ続く階段から降りてくるところを遠目に見て、そのあと玄関先で騒ぎが起きたのを知ったんです。だから、もしかしたら……」
「もしかして、大森さんが蓮見さんを突き飛ばしたと……そう仰いたいんですか」
後部座席からしゃしゃり出ると、バックミラー越しに西野さんの顔の凍り付くのが分かった。おそらく昨日の一幕は、そのかすかな目撃談を誰かに話そうとして選んだ相手が麻里さんだったのだが、運悪くそこへ大森本人という先客がいた――というところだろう。
「あまり急いてはいけないよ薫くん。あくまでも状況証拠に過ぎないんだ、大森くんがシロということもあり得る。――まあ、あとはわたし達本職に任せておいてくれ」
話をするうちにZは校門を潜り抜け、正面玄関の左手側にある冬囲いした針葉樹の列の間に入った。あともう少しで駐車場へつくというところで、麻里さんはふと、西野さんへこんなことを尋ねた。
「土曜に学校だと、委員会? それとも部活?」
「ぶ、部活です……」
オドオドとした調子で答える西野さんに、麻里さんはそっか、と笑って答えた。他愛もない、麻里さんお得意の質問だった。
来訪者用の駐車場で西野さんと別れると、麻里さんは職員玄関から事務室へ入り、急ではあるがと前おきながら、要件を切り出した。すると、寮の応接室で大森さんと舎監、蓮見の担任に学園長が待っていることがわかり、麻里さんと僕は事務員の案内で、「白蘭寮」と呼ばれる高等部の寮へ向かった。
「――音祢宮先生、先日はとんだ失礼をいたしました。何分、ショックが大きかったもので、気が動転していたのです」
昨日に比べ、いくらか落ち着いた様子の大森さんは、文字通り折り目正しい制服に、「風紀取締」と記された腕章をつけた腕――麻里さんはやっぱりな、という顔をしていた――をつき、麻里さんと僕へ非礼を詫びた。平静ならば案外、気の強そうな目も愛嬌があるから不思議なものだ。
「万代署の矢口刑事から先生がご依頼をハネられたと、僕がつい口走ったのがいけなかったのですよ。お気を悪くされたようで……お詫び申し上げます」
風紀委員会の副顧問も兼ねているという蓮見の担任の男性教師が、眼鏡の奥で目をびくつかせながら麻里さんへ謝る。どうやらこの若い先生にはすでに雷が落ちているようで、間にいる中年過ぎの舎監の女性教師と、学園長らしい修道服姿の老女が、話のたびに眉をひくつかせているのがよくわかった。
「お詫びはともかくとして、わたしが聞きたいのは当日の発見に至るまでの事情なのです。矢口刑事から、おあつまりの皆様が第一発見者であると伺っておりましたが……」
黒いシャツにボヘミアンタイ、深紅の派手なパンツスーツに身をくるんだ麻里さんが、足を組み替えながら尋ねる。そして、その問いに対する彼らの長い話をまとめると、次のような具合になった。
事件当日、風紀委員会の来年度予算審議の経過報告を東棟の学園長室でしていた男性教師は、別の用事ではちあわせた舎監と学園長とで、暖房にあたりながらかるく世間話をしていた。そのとき、中庭の方から何かの崩れるような音がしたのに気づいて窓から身を乗り出すと、ビニールの温室がバラバラになり、その上に蓮見さんが倒れており、慌てて現場へと向かった――。
というのが、関屋の聖ハリス女子学園で起きた転落事件の、第一発見時のいきさつである。
「そのときわたしも校舎の中にはいましたが、最初は何があったかわからなくて、そのまま寮の方へ戻りました。そのあと、夕食の時間になって舎監から事情を聴いたときは、もうとても驚いて……」
大森さんが教師陣に続いて語るのを、僕と麻里さんは嘘つけ、と言いたいのを我慢しながら聞いていた。事情がすぐにわからなかったはずの大森さんに、どうして報道もされていない西棟からの転落が分かったのか――それだけでも十分に、彼女はクロに近かった、
「事情はよく分かりました。だいたいのことはもう鑑識班員が調べて行ったとは思いますが、転落元の屋上、差し支えなかったら拝見できませんか」
「ええ、構いませんよ。――鍵の方、支度しておいてくださいな」
学園長からそう命ぜられると、男性教師はハイッ、と言って部屋を出てゆき、その五分後、僕と麻里さんはトラロープで区切った西棟の屋上へと上がった。崩落した手すりのあとには、真新しい鋼材が針金で巻き付けてあり、鈍い輝きを放つ空模様と相まって不気味な様相を呈している。
「この高さから落ちて無事だったのは奇跡ですね。――ときに先生方、落ちた蓮見さんは、高いところはお好きな人でしたか」
四階建ての屋上から下を見ながら、麻里さんは同行していた大森さんや先生たちに妙な質問を投げる。
「さあ、どうでしょう。同じ委員会にいても、よくわからないことがありますから……そうでしょう、先生」
大森さんの言葉に、蓮見さんもおなじ風紀委員――しかも委員長だという――であったことに驚くと、話をふられた男性教師は、まったくですね、と返した。
「成績優秀、品行にも卑しいところはなし。後輩からよく慕われる、まあ、いわゆるモテるタイプの生徒ではあるかもしれませんね」
「先生、あまり適切な表現とはいえませんよ」
担任からの偽らざる評価は、不機嫌な顔の学園長に遮られてしまい、どうやら大森さんが血相を変えて話した恨みを抱くような相手のしわざ、という話も怪しいことだけははっきりした。
「そうなるとますますわからなくなりますね。どうしてそんな子が、わざわざ立ち入り禁止の屋上へ上がったのか……そして、もしこれが事件ならば、突き落とした犯人は誰か……」
「なかなか難物だよ、これは。まあしかし、材料はそろったわけだ。あとはゆっくり調理するとしようよ」
行きと同じ事務員の案内で玄関まで来た僕と麻里さんは、白蘭寮での一幕を思い出しながら、Zへ乗る支度を始めた。と、
「薫くん、ひっこむんだっ――」
ガラス扉を引こうとした僕の手を無理にひっぱると、麻里さんは僕を後ろへやって、あそこの木陰……とつぶやく。麻里さんの指さす先へ神経を注ぐと、
「……ややっ」
と、僕は思わず小声を上げてしまった。遠目に見える冬囲いの下、人目のないのをいいことに唇を交わす制服姿の若いカップル。双方ともに、この学園の女子生徒である。
「――ほんとにあるもんなんですねえ」
「そういうものだよ。邪魔しちゃいけない、隠れていようか」
驚きを通り越してひどく冷静な僕をひっぱると、麻里さんは靴脱ぎがわりのスノコの手前まで戻り、神妙な面持ちで口を開いた。
「――ひょっとすると、今度の件もそういうたぐいの話じゃないだろうか」
「――女性同士の愛憎劇、ってわけですか?」
「だとすれば納得はいく。ほら、担任の先生が言っていただろう。蓮見はいわゆる、モテるタイプの生徒だった、と……」
「あっ」
たしかに、話の中でそんなやり取りがあった。そうなると、事故のセンが薄れる代わりに、今度はその愛憎劇の登場人物は誰か……という問題が浮上してくる。だが、それ以上の推測はその場では行われず、僕たちは相変わらず木陰でいちゃつくカップルを横目に駐車場を抜け、学園を出たのだった。