疑惑の依頼人
その日、いつものように古町通のアーケードを抜けて家へもどった僕は、門前にある電信柱の陰で、子猫のようにたたずむ女子学生の不思議な様子が気になって、つい声をかけてしまった。まだまだ本格的な春にはおよそ遠い、三月末のある金曜日のことである。
「あの、どうかしました?」
声をかけると、彼女はキャッ、と声を上げて、マフラーの中で首をすくめてしまった。小柄な子で、困ったようなハの字の薄い眉に、セミロングの黒髪。色の薄い丸い温和な顔には、活発な性格の主、という感じは微塵もない。
「すいません、そこ、僕の家なもんで……。もしかして、麻里さんにご用ですか」
「あ、あの……その……」
急に話しかけたのが悪かったのか、相手はヘドモドとしたままで事情を打ち明けてくれない。濃紺の、胸元に校章の入ったダブルのピーコートというところから、関屋にあるキリスト教系の私学、聖ハリス女子学園の生徒ということはわかったが、なんのために来たのかまでは聞いてみないとさすがにわからない。
それも聞こうか聞くまいか迷っていると、急に玄関先の方が騒がしくなった。それに気づいた彼女と僕は、そろってそちらへ目を向けることになった。
「――失望しました。私はあなたが、そんな非道なことをおっしゃるような方だとは思いませんでした」
「――何とでも言いたまえ。きみのように仔細を打ち明けないまま、事件を追えというような依頼人は、わたしの方から願い下げだよ」
高飛車な前者の声はわからなかったが、落ち着き払った後者の声には聞き覚えがあった。僕の下宿先、煉瓦造りの邸宅の若き女主人・麻里さんこと、私立探偵の音祢宮麻里である。
「ちょうどいいや、麻里さんいるし、よかったら取り次ぎましょうか」
ところが、彼女は僕の申し出を振り払った。
「どうか、出てきた人には、私が来たことを一切伝えないでください――」
青い顔でそう告げると、彼女はブーツの足元でパタパタと駆け出し、背後で玄関の戸が開いたのと同時に、二本先の路地へ姿をくらませてしまった。
「――おや、薫くんじゃないか。おかえり」
路上に突っ立っている僕の姿に気付くと、玄関の奥からクリーム色のセーターに、裾が広がった紺のパンツというラフないでたちの麻里さんが、肩先に触れるボブヘアを揺らしながらこちらへやってきた。
「た、ただいまもどりました。――あれっ」
その背後から現れ、こちらを怪訝そうにうかがう相手の格好に、僕は思わず声を上げてしまった。そこにいるのもさっきと同じ、ハリス女子の学生だったからである。
「――失礼します」
だが、同じ学校といっても性格まで同じようにはいかない。三つ編みのおさげ髪と対照的な、ぎょろりとした三白眼で僕をにらむと、彼女は不機嫌そうに挨拶をしてから、先刻の大人しい少女と同じ方角へと歩き去っていった。
「麻里さん、なにかあったんですか」
玄関へ入り、待ち構えていたメイドの亜紀さんにコートとマフラーを預けながら麻里さんに尋ねる。すると、麻里さんは細面の顔へ不機嫌な色を浮かべて、
「手の内を明かさないくせに、人の手の中を探ろうとする不届き者が来たまでさ。――亜紀、八時ごろに矢口刑事がいらっしゃるから、お茶とお菓子の支度をお願いね。薫くん、事情はそれまでお預けだ。ちょっとひと風呂、浴びてくるよ……」
といって、香水とオランダ葉巻の匂いをほんのり漂わせながら、二階の寝室の隣にあるバスルームへと上がっていった。
そして迎えた八時。階下でパトカーの止まる音がしたかと思うと、玄関のベルが鳴り、亜紀さんの案内で紺の背広にソフト帽の、細身の体躯の刑事がのそりと応接間へ姿を見せた。
新潟県警万代署の刑事、僕と麻里さんの馴染である矢口刑事である。
「どういう吹き回しです麻里さん。あの件は一度、お断りになったじゃありませんか」
ソファへ収まるなり、先だって麻里さんに捜査協力を断られたらしい矢口刑事が、息も荒く尋ねる。赤いパンツスタイルのスーツをまとい、ホルダーにはめたオランダ葉巻をくゆらしながら、麻里さんは悠然とした調子で答える。
「実は今日、午後に妙な訪問者があってね。薫くん、きみも見ただろう。ハリス女子の、おさげ髪した気の強い女子学生――」
「なんですって。麻里さん、いったい誰が来たんです」
「大森瞳子という、委員長然とした感じの子だ。――きみの警察手帳には、そんな名前はないかい」
慌てて手帳をめくる矢口刑事を、僕は紅茶をちびちびと舐めながら脇でそっと眺めた。
「ありましたよ。被害者と同じ風紀委員会の生徒です。で、いったい何が……?」
「――三時過ぎ、いきなりここへ来たと思うと、こういったんだ。三日前に屋上から落ちた同級生・蓮見由衣の身辺調査をしてほしい、誰か彼女を恨んでいる相手が犯人なんじゃないか……とね」
「で、お引き受けになったんですか」
矢口刑事が手帳を仕舞いながら尋ねると、麻里さんはオランダ葉巻の煙を吐いて、
「まさか! 大森くんの態度の高飛車なのが気に食わなくて、ちょっと皮肉交じりに追い返したんだが、きみたちの方で頭を抱えてるあの一件にどうも関係があるような気がして、こうしてお越しいただいたと、こういうわけさ」
「――関係あること、といいますのは……?」
膝に手をついたまま身を乗り出す矢口刑事に、麻里さんは足を組みなおしながら、
「どうも彼女、何か我々の知らない、事件の裏を知っているようなんだよ。ハリス女子の転落、ひょっとすると事故ではなくて、事件なのかもしれないよ」
と、のぼる煙をにらみながら、神妙な表情を浮かべるのだった。