耳ツブの九割は『罠』ですよね?
今朝、突然伊藤君に誘われた。
いつもクラスの中心にいる伊藤君が、地味な私に話しかけてくるなんて。あんまりに突拍子がなくて、周りにいた友達もどうコメントしていいか困り顔だ。
「次の模試がヤバいって……」
「てか、一人で自習室行けばいいじゃん? 赤城先生いるし」
確かに。私より勉強を教わるなら赤城先生がいるんだよね。なんで私?? 解せない。悶々と、シャーペンの巻き貝チャームを見つめる。
「チナ、行くの?」
友達の問いに、何気なくクラスの真ん中にいる伊藤君に目をやった。男子や女子に囲まれて、楽しそうにお喋りする――いつもの彼がいる。伊藤君たら、机に腰かけちゃって……。
彼はクラスのムードメーカー。伊藤君がおどけると、みんな思わず笑ってしまうの。
地味な私とは住む世界が違う――雲の上の人ってイメージがしっくりくる。変な言い方だけど。
あ~……でも。
約束したことになっちゃったみたいだし……。どうして私を誘ったのかわからないけど、行かなきゃダメだよね。無視するのは良心が咎めるし……。宿題もラストの問題が解けなかったし、赤城先生に質問できるなら……うん。いい機会だと思おう。
でも……。
話したこともない男子と二人きりだったら心細いな。不安だから誰か一緒に……
「ドラマの成瀬君、超カッコ良くてぇ」
「てか部屋の真ん中にアイアンレースの螺旋階段があるって、超オシャレだよねぇ」
楽しげに囀る彼女たちに――私は言おうとした言葉を飲み込んだ。
彼女たちは勉強の話をしたがらないんだ。受験も近づいているから、関心はあると思うけど。でも、話題に上るのは、漫画やドラマの最新話だったり、恋バナだったり。
『勉強』は、つまらない話題。
受験の話も志望校の話もタブー。
それが暗黙の了解。
友達はみんな優しい。でも、彼女たちの本心は波紋に揺らぐ水面のように、透明なようでも見透かせない。
私は勉強が好きだけど、それを言ったりつきあわせたりすると、嫌味に捉えられるかもしれない。
私の迂闊なひと言で、彼女たちの機嫌を損ねて嫌われたくない。
だから……。
今回は一人で行こうかな……。
曖昧に微笑んで、答を誤魔化した時。
「ねぇねぇチナ~、もしかしたら伊藤君、チナのことが気になるのかもよ?」
ニヤニヤしているのは咲姫ちゃん。つられてもう一度伊藤君を振り返ると、彼と目が合った。とりあえず淡い笑みを返す。
「ほら! さっきチナのこと見てたって!」
それはたまたまだよ。私は苦笑した。
伊藤君は女子とも仲がいいの。明るくて社交的な寺嶋さんや、オシャレでちょっとクセのある田辺さんとよく話しているのを見かける。キラキラした彼女たちに比べたら、私なんて石ころよ。
◆◆◆
そして昼休憩。
自習室に入ろうとしたタイミングで、伊藤君がやってきた。
「ごめんねー。つきあわせちゃって。も、ラストの問題がラスボス級に激ムズでさぁ」
ぜんぜんわかんなくて~、とぼやく伊藤君。
そうだね。ラストの問題は難しかったよね。私も途中から解き方がさっぱり。
「山中さん、この因数分解が無理ゲー。うぐあぁ~」
大げさに机に突っ伏し、指先で問題を指さす伊藤君だけど……。
宿題がまっさらだよ?
……なんとなく、私を誘った理由がわかった気がした。
「ここは、公式と同じで……」
少し声を潜めてヒントを出す。だって赤城先生がすぐ近くで監督しているんだもん。鬼の前で堂々と宿題を写せるわけがない。
……あれ?
伊藤君、どうして場所を自習室にしたの??
……解せない。
「あそっか、おおっ! できたぁ」
一方の伊藤君は楽しそうだ。もう、大きな声出したら赤城先生が
「伊藤、宿題は家でやってくるもんだぞ」
ほーら、やっぱり。
「一生懸命考えたけど、わかんなかったんです!!」
開き直る伊藤君に、先生がやれやれといった顔で椅子から腰をあげようと――。
「お……俺、勉強は女の子に教わらないと死んじゃうんだ! 山中さん、次いこ! 次!」
どこかで聞いたような台詞を吐いて、伊藤君がすかさず私の真横の席に逃げてきた。先生はムッとしている。
「実数は実数でまとめて、虚数は虚数で……あ、ゴメン」
指で数字を追いかけていたら、伊藤君の手にぶつかってしまい、私は慌てて手を引っ込める。背後から先生の「若いねぇ~」ってしみじみした声が聞こえてくるけど……深い意味はないよ、うん。
『先生って顔が『おねぇ忍者』に似てない?』
問題集の端っこに落書きして話しかけてくる伊藤君。思わず笑ってしまった。あ、『おねぇ忍者』はお笑い芸人よ。
ちょっと。筆談で笑わせようとしてるでしょ。
「あ、4bはiの方」
「はは。あ、そっかそっかぁ。サンキュー」
集中集中……あ! 残り五分。
伊藤君がトントンと肩を叩く。少しだけドキッとしたけど、顔に出さないように「なあに?」と目顔で問いかけると。不意に彼が耳もとに口を寄せてきた?! 吐息が耳に……
「赤城流忍法、ヒゲ分身の術ッ」
「クッ……!」
な、耐えて! 耐えるの! 私の腹筋!!
もう、なんてことをするの! 伊藤君!
不意打ちの攻撃で、シャーペンを持つ手がフルフルと震える。
「山中さん、ラストの問題これでよくね?」
伊藤君が自信満々に自分の問題集を見せてきた。解答欄には……?
『まだ解明されていない』
「これ、正答じゃん?」とドヤ顔の伊藤君に今度こそ噴きだしてしまって、私たち二人は先生から小言をもらってしまった。
宿題を一緒にやっただけだけど、本当に楽しい時間だった。
主人公:俺(伊藤)
ヒロイン:山中智奈美
咲姫ちゃん:智奈美の友達。苗字は石川
赤城先生:数学教師。チョビ髭三十代。独身
おねぇ忍者:最近売れはじめたお笑い芸人。ボケ担当。相方の知名度が上がらないのが悩み。