こんな恋をしたこと、ありませんか?
翌朝、私は夢を頼りに電車に飛び乗った。伊藤君の指定した駅で降りて、最初の目印――赤い自動販売機を探す………あった!その先の道をまっすぐ……
……。
………。
…………。
「本屋、あった! この先……」
最後の目印である本屋の前までやってきた。辺りを見回すも……
(住宅地だけど! ああっ! 戸建なのかマンションなのか、聞いとけばよかった! )
天気予報は外れたのか、穏やかな晴天が広がっている。陽気に誘われたのか、土曜の人通りは多い。さすがにこんなにひと目のあるところで、大声で名前を呼ぶ度胸はない。というか、大声をだしたところで、声が届かない気がする。
戸建の表札を見て回ったけど、伊藤という苗字のものはない。何にせよ数が多すぎる。マンションはこの付近なら、見えるところには黒っぽい外壁の五階建てと、煉瓦調の外壁の横に大きな三階建てがあるが……いずれもロビーには暗証番号キーのオートロック。無理だ。捜せない。
途方に暮れて戻った本屋の店先。平積みにしてある漫画が目に入った。探し出した47巻の表紙には、黒のビキニにベリーダンスの踊り子のヒップスカーフを腰に巻きつけ、その上から白衣を纏った奇抜としか思えないキャラが描かれていた。
◆◆◆
朝から晴れ渡り、絶好の外出日和だが、俺はぼんやりと自室で天井を見上げていた。
何か……何かスッキリしないのだ。
大事なことを忘れてしまったような……
なんだっけ??
大学絡みの諸手続は、全部終わったはずだ。向こうに行くのはもう少し先の予定。それまでの数日は完全にフリーだ。今日に至っては親も朝から用事でいない。
卒業前の俺なら、一も二もなく遊びに出かけただろう。だが、今はLINEをやめてしまったので、誘いも来ないしこちらから誘うこともできない。
「なんにも……ないよなぁ」
呟いてみるものの、モヤモヤはなくならない。なんだ?何を忘れているんだ?!
マンションの窓から見える空は、いつの間にか白く色を変えていた。そろそろ昼になる。
◆◆◆
時刻はそろそろお昼。歩き疲れた私は、駅への道を戻っていた。どこかで休みたいのだが、住宅地の中に都合よくカフェがあるはずもなく。道に迷っても困るので、とりあえず駅に戻ることにしたのだ。
やっぱり、ダメなのかなぁ。
諦めろ、もう遅いってこと……?
考えれば考えるほど、負のループに嵌まってしまう。
通りには淡いピンク色で『桜祭り』と書かれたのぼり旗が揺れている。通り過ぎた小さな公園では、気が早くもお花見を楽しむ親子連れ。本来なら、心浮きたつ季節――
大勢の人出で賑わうロータリーをひとり歩く。春休みの学生たちで混雑したファーストフード店を通り過ぎ、落ち着いた雰囲気のコーヒーショップに入った。
オーダーして会計を済ませ、窓際の席に座ったタイミングで雨が降り始めた。
「あ……」
あっという間にザァザァと雨足が強まる。白く煙るロータリーを、傘を持たない人たちが慌てて軒下へ走っていく。その中に、白いフード付のトレーナーが……
「あ! お客様?!」
オーダーを運んできた店員が叫ぶも、私は振りきって店を飛び出した。
店の階段を駆け下り、白く霞むロータリーを走る! 白いトレーナーはファーストフード店の方へ……
「待って!」
思わず叫ぶ。
無数の小さな波紋の海を駆ける。跳ねた雨水が靴下を濡らしたけれど、かまわず走るスピードをあげた。あと数メートル……
◆◆◆
「伊藤君!」
聞こえるはずのない声に振り返ったと同時に、勢いよく彼女が飛びこんできたから目が飛び出るほどビックリした。
親が不在で冷蔵庫にもめぼしいものがなかったため、とりあえず駅に昼を食べにやってきたのだが……
「え……? 智奈美、ちゃん? なんで……」
なんで彼女がここに? ここは彼女の最寄り駅ではないはずなのに……。
黒髪に白く光る雨粒を纏わせ、肩を上下させていた彼女は、俺を見るや泣き笑いみたいな顔で。
「会いに、来ちゃった」
正直……正直な話。理性がぶっ飛びそうになった。
サァサァと糸のような雨が視界を白く霞ませる。今なら俺たちが向かい合っていることを誰も気にとめやしないだろう。
……。
……。
いや、ダメでしょ。
好きな子を雨ざらしにしてまで何かしようとか……さすがにそこまでひどい男ではないつもりだ。彼女の髪の水滴を払い、建物の中へ促した俺に智奈美が「あ!」と声をあげる。店に荷物を置きっぱなしで出てきてしまったらしい。
「すみませんでした……」
智奈美とコーヒーショップの店員に謝って荷物――小麦色のショルダーバッグを回収し。何となく、二人で駅方向に足を向ける。雨は小降りになってきた。
急な雨だったせいか、はたまた土日だったからか駅周辺はいつもより大勢の人がいた。雨宿りの暇つぶしに店に入りきれなかった人間で溢れているのだ。
そこに電車が到着したらしく、ホームへと続く階段から大勢の人――
「げっ」
あれってアツシじゃん! 近づいてくる集団の中にデカい元・クラスメイトを見つけた俺は、慌てて智奈美の手を引っ張った。
「智奈美ちゃん、こっち!」
なんでこのタイミングでヤツが?!まあ、ヤツもここが最寄駅だから、いて不思議はないんだが。
今は邪魔されたくない!
智奈美の手をひき、人ごみに隠れてヤツとすれ違う――改札を通り抜け、足早にホームへ向かう――どうやらアツシには気づかれなかったようだ。
島式ホームの片側には回送列車が止まっている。もう片側は空いていて、線路を挟んで向かい合うホームには、それなりに人の姿があった。
「夢と同じ服」
不意にクイと袖を引かれた。囁くような声に振り返ると、潤んだ瞳と視線がかち合う。ドクリと心臓が跳ねる。
「夢?」
聞き返した俺に「荒唐無稽な話だけど」と断って、智奈美が話してくれたのは。
怪しげな老婆と夢渡りの飴のこと。
それで、俺の夢に入って居場所を聞き出そうとしたこと。
「伊藤君、」
芯のある声。俺を見上げた眼差しは、いつか夕暮れの教室で見た一心不乱にチョークを操るものと同じ――ドクドクと心臓が騒ぐ。
「伊藤君が……ッ、好きで」
時が、停まったかと思った。
ギュッと目を瞑った彼女の頬はそれこそ林檎みたいに真っ赤で。
どうして、彼女から言われると予想できたろう。思わず天を仰げば、オロオロする智奈美の気配が伝わってくる。
「まもなく、三番ホームを、列車が通過します」
ホームにアナウンスが流れる。
「安全のため、黄色い点字ブロックの後ろまでお下がりください」
雨に煙る線路の彼方から、二つのLEDが近づいてくる。
「もぉ~……」
照れ隠しに笑って、佇む彼女をこわれ物を扱うようにそっと引き寄せた。見上げる潤んだ瞳に目を細める。本当、君って子は……
雪の女王のように凛としていて、
なのに、カラオケなんかに悪夢を見て、
はにかんだ笑みが可愛くて、
実は絵が得意で、
意外とよくしゃべって、カードゲームがめちゃくちゃ強くて。
そうかと思ったら……
プアァーーーーン
警笛が、雨音と周りの喧騒を掻き消した。
「そういうのは俺のセリフでしょ」
風を切り通過列車が走り抜けてゆく、そのほんの数秒間だけ二人きりのホームで。
好きで好きでたまらなかった女の子と、初めてのキスをした。
どこかから飛ばされてきた桜の花弁が、揶揄うように俺たちの周りで螺旋を描き、光に溶けるように雨上がりの空へ消えていった。
了
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました。




