あと少しの勇気が出ないんです
「い・と・う! 製作運ぶの手伝ってー」
明日は文化祭。数日前に仕上げたクラス全員で製作したアートを所定の展示場所に運び、模擬店のテーブル運び、テント張りの手伝いと……力仕事要員の前日は大忙しである。
あらかたの作業を終え、俺は教室へ鞄を取りに帰ろうと廊下を歩いていた。ほとんどの生徒たちは帰宅した後で、廊下は静まり返っている。だから、僅かな物音がやけにはっきり聞こえたんだ。
カツカツカツカツ
カツカツ……
何の音だろう。断続的に聞こえてくる音は、時折途切れ、衣擦れのような音も混じる。
薄暗くなった廊下に、明かりの漏れる教室。
いや、いつもの教室なんだけど、なんとなく入るのが躊躇われて、そっと扉の隙間から中を窺い見た。
こちらに背を向ける人物は、スカートを穿いているから女子。髪は短い。
カツカツ カツカツ
何を……黒板??
「え………?」
ちらりと見えた横顔にかかるボブカットの黒髪――並んだミントカラーの三角ピンの先に、いつもは髪に隠れて見えない耳があって。真剣な眼差しは、雪の女王ともまた違って。
「智奈美ちゃん、なにを……?」
彼女の手がけている「作品」は、とても見慣れたもので――
あれは俺の……!
と。
衣擦れの音がしたかと思うと、ガラリと扉が開いて。
「「あ……」」
至近距離で、目を丸くした彼女と鉢合わせした。
「模擬店の客寄せ?」
尋ねた俺に、彼女はコクリと頷く。
「伊藤君、言ってたでしょ? 『コレ見に行きたい!』てお客さんが思ってくれるモノがあればって」
そう言ってはにかむ智奈美の後ろには、俺のクリアファイルの拡大――
「黒板アート……初めて見た」
大人気アニメの映画公開記念イラスト。それを色のバリエーションも少ないチョークだけで、見事に再現してある。
「智奈美ちゃん、スッゲぇよ、これ……」
普通に美大とか行けるレベルじゃないだろうか。
「ええっ?! まさか。そんな大したものじゃないよ。絵なんか、久しぶりに描いたし」
ぶんぶんと手を振って否定する智奈美。聞けば、中学の頃は美術部だったのだという。「絵、好きなんだ?」と問えば、はにかみながらも智奈美は頷いた。
「まだ、描くの?」
「うん。あと少し」
「見てていい?」と問うた俺にぎこちなく頷いて、智奈美は作業を再開した。
よほど絵が好きなんだろう。チョークを持った途端に彼女を取りまく空気が変わる。絵が得意でも何でもない俺は、ただただ、目まぐるしく動くチョークに汚れた手先と、集中する彼女の背中を見つめていた。
長いようで短い時間の後、すっかり暗くなった空の下、俺は智奈美と並んで駅への道を歩いていた。十一月も半ばの夜は冷えこむ。二人分の吐息が白く、煙っては夜闇にとけて消えてゆく。
「智奈美ちゃんはどっち方向?」
「南栗橋。伊藤君は?」
「俺も。同じ」
「そっか」
ポツポツと交わす会話のひと言ひと言にドキドキと胸が鳴って。昼間とは表情の違う夜の街に、ふと流行の歌詞が浮かんだ。アコースティックの伴奏に乗せて――
〽隣並んだ君に好きって言えたら
〽どんなに いいだろう
〽君の手を攫う勇気が 出なくて
〽目の前の君を抱き寄せられたら
〽どんなに いいだろう
〽ほんの少し あと少し勇気が Ah~
〽出なくて
吐息交じりの早口で歌うサビが、いつか聞いた智奈美の声を脳裡に再生させて――
胸の苦しさを誤魔化すように、繋げない手をきつくきつく握りしめた。
寺嶋たちといるときは、君はたくさん笑ってくれるのに。どうして二人きりになると、ぎこちなく――
君の心がわからないよ……。君に俺はどんな風に映っているんだろう。答えの出ない問いがグルグルと頭を回る。
帰宅ラッシュの時間帯。駅はスーツを着たサラリーマンでごった返している。でも……
手を繫いではぐれないようにしなきゃいけない理由もなければ、都心の駅のようなもみくちゃにされる混雑でもなくて。お互いに無言で自動改札を通り抜ける。熱を持て余した手だけが、虚しくひんやりとした夜の空気を掻いた。
好きで好きでたまらない子と、二人きり並んでいるのに。会話のとっかかりが掴めない。こんな時に限って、周りの目や耳ばかり気になって、都合のいい話題が出てこない。
もどかしい時間だけが過ぎてゆく。
ホームに滑りこんできた電車から、大量の人間が吐き出され、それ以上に大量の人間が吸いこまれていく。その最中でさえ――サビが脳裡をグルグルと駆け巡る。
〽隣並んだ君に好きって言えたら
〽どんなに いいだろう
〽君の手を攫う勇気が 出なくて
人の波に流されて、線路側のドアの横に二人で佇む。せめて、智奈美を人垣から守るために、壁と長椅子の衝立に挟まれるスペースに彼女を立たせ、俺は扉の横の手すりと吊革に掴まった。
向かいあわせの彼女との距離はほとんどゼロで。
不安げに俺を見上げた智奈美の瞳が、物言いたげに潤んでいる気がして。
〽目の前の君を抱き寄せられたら
〽どんなに いいだろう
〽ほんの少し あと少し勇気が Ah~
〽出なくて
それでも、俺は最後まで何にも言えなくて。
やけに大きな心臓の鼓動と、吐き出す息の熱さばかり気になって。この時間がいつまでも続けば、と甘くてバカなことを願い続けていた。
待ちに待った文化祭当日。
昨日の夜、二人きりになれたにも関わらず何もできなかったから、この文化祭が彼女との関係を変える最後のチャンスだ! 起これ! 奇跡!
意気込む俺だったが。
「え! アツシのヤツがインフルエンザ?!」
なんと運の悪いことだろう。楽しみにしていたイベント当日に熱でダウンとは……。休んだのはアツシの他にも数人。いずれもインフルエンザ。こんな時に……。以前、ヤツに智奈美への恋心をバラされかけたとはいえ、さすがに憐れ……
「ごめんね、伊藤君。悪いんだけど、午後の部も呼び込み係、咲姫ちゃんだけだとかわいそうだから……」
……へ?
智奈美ちゃん、それってどゆこと……
「ごめんね。私も休んだ子の代わりに店番になっちゃって。一緒に回れなくて……」
しゅん、と肩を落として俯く智奈美。なんだか印象が違うなと思ったら、珍しく髪を結って……編み込みっぽい。よくよく見れば白いパールがさり気なく髪を飾っている。それに、『一緒に回ろう』って話、覚えててくれたんだな。
「仕方ないって」
口では殊勝なことを言いながらも、残念な気持ちが胸を占める。
………わかってるよ。ここで不平言ったらダメなことくらい。一方の智奈美は「あ、そうだ」と思い出したように鞄を漁り。
「これ、ありがとう」
例のクリアファイルを差し出した。
俺もあの巻き貝クリアファイルを返さなきゃな……
結局、休んだクラスメイトの仕事を引き受けたりでその日はてんやわんやになり、智奈美とはほとんど顔を合わせることはなかった。




