42.幻月 1
42. Paraselene
僕は、またも幻に魅せられてしまったのだと思った。
それは僕が数時間後に望んだ、元気なTeus様に過ぎないからだ。
これから何もかもが上手く行って、奇跡的な回復を果たした彼が、早朝の訪れとともにゆっくりと目を醒ます。それを寝ずの番の眠気を抑えようと必死でいた僕が気づいて、涙を流してその懐に飛び込むような。
そんなハッピーエンドを期待していたから。
きっと、このお酒に入っていた毒を吸い込み過ぎてしまったんだ。
あまりにも酷い臭いだったのは、そういうことだったに違いない。僕の鼻を殺し、頭まで回ってきている。
そう考えなければならないほど、目の前の景色は信じ難かった。
露も嬉しいと思えない。
Teus様は布団の上に置かれた両手をゆっくりと僕の方へ向かって差し出す。
“…?”
何の仕草であるかを理解するのなど造作も無かった。
でも僕は、それに従うのに、逡巡してしまう。
「…おいで!」
…ああ、どうして、こんなに懐かしいと感じるのだろうか。
思わず涙が滲み出て、目の前の主の姿は幻覚らしく揺らぐ。
その声をもう一度聞きたかったがために、僕がどれだけ頑張ったと思っているんです?
僕は、本物のTeus様の、その言葉を聞いて、あなたに飛びつきたかったんです。
「おいで、Ska!」
…それなのに、こんなところで僕を呼ばないでください。
僕の、名前を。
「Skaは、相変わらずモッフモフだねえ…。」
“……。”
どうして良いか分からず、されるがままに彼の具合の良い場所へと連れられた結果、ベッドの上で股を開いた間にお座りした僕を、Teus様が後ろから抱き着くような体勢にさせられてしまったのだった。
先に断っておくと、僕はおおよそ室内犬のサイズを凌駕している。両腕を回しているTeus様は、僕の首の周りの立派な毛皮に顔を埋めるぐらいなので、ちょっと場所を取りすぎていやしないかと心配になる。
ただ、これ自体はとても悪くない。寧ろ今でなければ最高のシチュエーションと言って良かった。
Fenrirさんの目を気にすることなく、というのはTeus様が僕のことをあまりにも可愛がるので、それを見て焼き餅を超えて嫉妬のような眼で僕を睨み殺してくるのが怖いのもあり、半分可哀想でもあり、そして僕のことをやはり野生を失った犬のようだと憐れみと侮蔑の表情で眺めるからなのだが、そんなことを考えずに、舌を垂らしてハッハッと上機嫌な呼吸をして、Teus様のお腹のあたりで暴れる尻尾を、どうか掴まないでと願うような、そんな至福のひと時になる筈だった。
それなのに、僕の尾は不安げに揺れるだけで、未だにTeus様が目を醒まして、さも当たり前のように僕のことを優しく撫でてくれているこの現実世界を受け入れられていない。
「はぁ~あったかい…。」
背中にぴとりと身を寄せて、ほっとしたような声を漏らすその様子は、僕が知っている、まさにその通りのTeus様だ。
本当に、そうだろうか。
“……。”
いてもたってもいられなくて、僕は何だか恐ろしくなって、後ろに身体をひねり、Teus様の顔を覗き込んで、それでもやっぱり信じられなくて、舌で彼の顔をめちゃくちゃに舐めた。
「はは、くすぐったいよ…」
皆さんは、僕たちが慕う気持ちを伝えたくてこうするのを、勢いに耐えきれなくってつい顔を背けたり、しますよね。ちょっとしょっぱい味を見たいからそうしてるわけじゃないので、別にそれは良いんです。
でもTeus様、どうしてか分からないんですけど、全然抵抗しないんですよね。ちょっと、珍しいと思います。嫌がってなんかないよと、そう示そうとしてくれているんでしょうか。
ふと、僕はFenrirさんが普段Teus様とどんな感じで触れ合っていたのかが気になった。
前から思っていたのだけれど、Teus様が僕にしてくれていることの多くが、Fenrirさんに対して同じようには行かないのではという気がしていた。
今こうして後ろから抱き着くTeus様のお相手をするのでさえ、きっと難しいだろう。
尻尾の上に跨って座って、壁一面に背中の毛皮、みたいになるのかなあ。そもそも、FenrirさんのことだからTeus様は尻尾にすら触れさせてもらえ無さそう。
誰がお前なんぞに、俺の尻尾は貴様の肌触りの良い玩具ではない!とか怒鳴り散らしたりして。
尻尾を掴まれるのは嫌なので、気持ちは凄く分かりますけどね。勝手に想像しておいて、くすりと笑ってしまう。
とにかく、そんないつも通りのTeus様の反応を見て、僕は少しだけ安心して気を緩めたんだ。
だけどそう言えば、Fenrirさんは一緒に寝ようとすると恥ずかしがるんだと、前に一度話してたのを僕は思い出した。
それは容易に想像できた。きっと僕のお嫁さんが子供たちにそうするように、ぐるりと弧を描いて囲ってやるのだ。そこに敷き詰められるようにして身を寄せる子供たちのことがちょっと羨ましく、僕は愛おし気に眺めながら、ちょっと溜め息をついたものだ。我慢できなくて、お嫁さんの背中側に回って、せめてくっついて眠ったりもしたっけ。
つまりTeus様は、Fenrirさんの特等席で眠れるという訳だ。
もしかすると、取り囲まれたふかふかのベッドに埋もれて、眠ってしまったのを見届けてから、仕方なくふさふさの尻尾の布団を被せてやる。そんな無骨なFenrirさんらしい愛情表現が聞こえてくる。
いいなあ、僕もFenrirさんぐらい大きかったら、Teus様に自慢できるのに。
一緒に寝て欲しいって、毎晩のようにお願いされるぞ、きっと。
妄想がはかどっちゃうなあ。なんだか、楽しくなってきたぞ。
これが現実であることに目を背けられるなら、喜んで僕はTeus様になでなでされています。
「ありがとうね…Ska…。」
でも後ろで、ぼそりと彼は呟いた。
その声に、初めて感情が籠っているような気がして、僕は醒める。
いいえ、とんでもないです。
でもね、駄目なんです。Teus様。貴方はFenrirさんの仰る通り、もっと大切にすべき方がいます。
そうでしょう…?
「そうだ!ねぇSka…!」
は、はい…!? なんでしょう…?
Freyaさんはまだかまだかと耳に意識を集中させていた僕は、唐突にかけられた声に、びくんと身体を震わせる。
相変わらず居心地の良いひと時ではあったのだが、お世辞にも落ち着けるとは言えなかったので、そわそわしていたのがまずかったのだろうか。
「あのね、Skaに見せてあげたいものがあるんだ…!折角だし、良いよね?」
どうしたのですか、急に…?
まるでさっきまでも、他愛も無い触れ合いと、どうしてか通じる言葉のやりとりが続いていたかのように、何の脈絡もなくTeus様は僕に思いついたらしい提案を口にする。
なんだろう、何を見せて貰えるのかなと、普段であれば尻尾を大きく揺らして顔を傾けるのだが、彼に対する現実感が突如引き下げられ、今はその言葉をそのままに受け取れない。
というか、いくら何でもそれ以前の問題ですよ。
確かにTeus様、目が醒めて本当に良かったですし、僕も嬉しいですけど、まだ安静にしてなきゃ駄目です。
さっき抱き着かれたときだって、びっくりするくらい冷たい手をしていたんですよ?
少なくとも、Freyaさんがいらっしゃるまでは安心できません。
それまで僕は、貴方のことを見守って、必要とあらば瞬時に行動できるようにしてなきゃならない。そんなことをしてる場合じゃないんです。また元気になってからでも、良いでしょう?
だからお願いです、じっとしていて?
そんな想いを込めて、良く見えないTeus様の眼を覗き込むのだが、伝わった様子はなく、ただにこにこととしているのだけがわかった。
ああ、Fenrirさんのようには、上手く行かないなあ。
せめて、ベッドから這い出ようとするのなら止めないと。
僕はTeus様の抱っこの腕輪からするりと抜けて立ち上がり、柔らかな足場で踏ん張ると、もう一度彼の鼻を舐めた。
すると、彼は僕が最も惹きつけられるだろうと知ってか、ある言葉を口にした。
「Fenrirがくれたんだ!Skaも見たらきっとびっくりするぞ…」
え…?
目を瞬かせて戸惑うと、うんうんと頷く。
Fenrirさんが、ですか?
一体なんだろう。確かに、気になりますが…。
お芋しか候補に挙がらないあたり、僕はお腹が空いてきているのだなと思った。
さっきまでは全く感じていなかったのだから、緊張が少し解けたせいなのだろう。
僕は最後の力を振り絞るために、全ての使命を終えてから享受できるであろう、日常に溢れる楽しみを目当てに集中力を保っていた節がある。今すぐにでもたらふくお肉を食べて、丸くなって眠りたいぐらい疲れていたのは確かだった。
ひょっとしたら、僕にもそれを食べさせてくれるかな? …って、なんで食べ物前提で話が進んでいるんだ。
いけません、Teus様。ご褒美であっても、こればっかりは命令に逆らわせて頂きます。
「暖炉の側に薪木が積んであるだろ?そこの陰にかくしてあるから。」
指先が示す方へ、視線を向けるが、暗がりに潜むそれの気配はわからない。
「けっこうでかいんだけどさ。Skaはもっと大きくて、初めて見た時驚いたなあ…。」
ああ、手に取ることのできるような大きさでは無いのですね。僕と比較されるのが少し引っかかりますけど。
それなら良かった。Teus様が立ち上がらずに済むのであれば、言われた通り、僕が見てきます。
絶対、動いちゃだめですよ?
そう注意すると、Teus様は少し身体を引いて、ベッドの背もたれに身を預けて、そうする気がないことを示してくれた。
僕はTeus様の脚を布団の上から踏まぬよう気を付けて飛び降りると、指示された通りに暖炉の傍らにある丸太の山の裏を、恐る恐る覗き込んだ。
明かりが無いので、良く見えず、臭いを頼りにするも、木の香りしかしてこない。
なんだろう、これ。少なくとも、食べられなさそうではある。
でも、なんとなくFenrirさんの匂いが、混じっているな。
“これは…?”
眼が慣れるのをじっと待っていると、やがて朧気ながらも輪郭が捉えられ始めた。
“わわっ…!?”
反射的に脅威となり得る侵入者にそうするように、低い唸り声を発してしまう。
こればかりは予想していなかった。
息の一つもせずに身を潜めていたのは、僕と同じような風貌を備えた狼だったのだ。
思わず臨戦の体勢をとり、しかもあちらの存在の一切を窺い知ることが出来なかった己を恥じたぐらいには、それが造られた狼である、と判るのにかなりの時間がかった。
初めて水面を覗き込んで、それを自分の姿だと認められないのと似ていると思った。
Teus様の言う通り、僕よりも一回り小さくなかったら、僕は警戒を解くことが出来なかったかもしれない。
恐る恐る近づき、思い切って鼻先を相手の鼻面に押し当てる。
毛皮の代わりに、硬くて冷たくない木の感触が帰って来る。
すごいや…本当に狼かと思った。
これぐらいの体格であれば、この村にいる大人の仲間でも普通にいるので、よりリアルに見える。
非凡な闇夜にこうして紛れられては、僕でも見分けがつかないほどには、精巧に良くできていた。
どうやらFenrirさんは、自分ではよく見えない部分まで、しっかりとしたモデルが頭の中に描けていたらしい。
こう言うと奇妙に聞こえるかもしれないけれど、本人のお墨付き、といったところかな。
「ね、すごいでしょ?」
怖いものを見て逃げ帰ってきた子供を迎え入れるように、Teus様は再び自分の腕の中に僕のことを迎え入れようとする。
はい、僕びっくりしました。
怖くなんかは、なかったですよ?
僕はそう示したくて、ちょっとだけ顔を背けて抱っこの要求を拒否する。
ああ、そんな残念そうな顔をしないでください。わかりましたよ…。
でも、どうしてFenrirさんはあんな立派な狼の木彫りを造られたのですか?
「あれはね、夏の盛りに海辺で拾った流木を、Fenrirが齧って作ってくれたんだ。」
ウミ…ですか?
結局、先ほどまでと同じ体勢でなでなでされてしまった。どうもTeus様はこうしているのが好きらしい。
まんざらでもないので、Freyaさんが来るまでは、もうこうしていても良いかな。
「一晩中ガシガシしてたからさ、力作つくってるなあと思って眺めてたら想像以上でさ…」
Teus様は、よく僕の知らない言葉を口にする。
それがこの村の人間では無いからなのかは分からなかったが、彼の言うことを理解しなくてはならない僕にとってはそれがなんとも厄介だった。また新しい言葉が増えるのは嬉しいことだし、こうして頭を捻って、後になれば見当違いの推測をしてしまうのも面白い。またFenrirさんに翻訳をしてもらわなくては。
でも、海と言うのはきっと、牙を突き立てやすい柔らかい木が生えてる場所なんですね。それぐらいは推測できます。
「でも、一番驚いたのは、Fenrirが狼のことをちゃんと知っていたこと、かな。」
…?
それは、どういうことですか?
「あいつはね、知らないはずなんだ。」
「Fenrirは、狼に出会ったことがないんだよ。」
「君が初めてなんだ。Skyline。」




