432. 過ぎ去った季節 2
432. Seasons Past 2
「久しぶりな気がする…」
「こうやって、君の背中の上から、空を眺めるの。」
道標を失った獣道から空を仰げば、葉を削ぎ落された枯れ木が、血走った目のように視界に纏わりついていたのに。
今はこんなにもすっきりとしていて、全部、雲の下のことのよう。
重たい瞼から覗かせる左目が映す視界に、既に乳白色の光は失われつつある。
夕日の階調が映っているのだと、辛うじてわかった。
色が無いと、こんなにも、胸を焦がされない、
濃淡の廻りでは、憂鬱な一日を一人で乗り越えられないのも無理はないと思った。
「俺が、ゆっくり歩いてやっていることに、感謝するのだな。毛皮に掴まっている必要が無くて、楽だろう。」
「そうじゃなくてさ…」
「…まあ、そうだけど。」
これで良いんだ。
彼は、面と向かっての会話は苦手だ。
こうやって、視線を合わせずに済む方が、彼の口は、幾らか柔らかく、話しやすいものになる。
俺を遠ざけたい気持ちが口を突いて出るだろう。でもそうして淀みなく溢れた、自分の言葉の中に、本心を探りながら。
決心がついたなら、俺を背中から降ろして、伝えたい言葉を紡ぎ出してくれる。
「二人っきりで、こうして散歩をするのは、いつ以来だろう。ねえFenrir?」
「俺がお前を、北海岸の浜辺へ連れ出した時じゃないか。」
いつだっけ、などとあやふやな記憶を辿って考え込むのが楽しいのに、つまらない。
彼は間髪入れずに、そう即答する。
「ああ…」
「FreyaとSkaに、先に向かって貰っただろう。お前だけ、転送酔いが我慢ならないので、仕方なく俺が送迎してやった。」
「そんな言い方ってある…?でもそんな、前になるっけか。」
「ほんの、半年前のことだ。」
「つい、春先ってこと?それにしては、随分昔のことに感じるよ。」
「数千年神様やって来た奴の言う台詞とは思えん。大層、薄っぺらい人生を過ごして来たんだな。」
「はは…否定しないわ。」
君と出会ってからのことを思い返せば、俺の一生は、いとも容易く、天秤でその体重に負け宙に浮くよ。
「でもさあ、あの時は、休みなく走っていただろ?…それこそ、君は一睡もしなかった。」
「それでも、あいつらを待たせることに変わりは無かった。地に足の着いた狼は、こうして這いずり回るより他ない。」
「それでも、この狼は、世界で誰よりも早く走る。」
「何が言いたい…」
「別に…ただ、目的地を知ることなく、こうしてのんびりと話を出来たのは、それよりも、もっと前になるかなと、そう思っただけ。」
「ふむ…それも、俺とお前だけで、という意味であるのだな。」
「そう。いつになるんだろうね。」
「ううむ、今度こそ、覚えていないな…」
「いや…」
「オーロラだ…」
「オーロラか…」
「しまったなあ!もう、シーズン過ぎちゃった?」
「どうだろうか…冬が味方してくれれば、北の果ての高山で、或いは…」
あれは…俺の勇気を労い、彼が与えてくれた褒賞だった。
猛吹雪に見舞われた俺とSkaを助け、洞穴に避難させてくれた彼だったが、そこで一夜を明かすことは頑として許してくれなかったことがあった。
Skaの家族を心配させない為、ヴァナヘイムへ帰してやる必要があった、というのは建前で、実際は俺にFreyaの元を無理やり訪ねさせる為の策略だったのだ。
‘めでたい報告が聞けるようならば、今度こそお前を泊めてやろうではないか。’
などと揶揄われ、酷い赤面をさせられた記憶が、一挙に蘇って来る。
背中を押された、なんて言えば、聞こえは良いけれど。
結局、俺は彼女と一緒に住まわせて貰えることになった。
そのお祝いとでも、言えば良いだろうか。
彼は本当に、俺をあの一晩だけ泊めて、誰にもしたことのない歓待で迎えてくれた。
その時に見上げた景色が。
あの色が。輝きが。
彼女や君が歩いた道が。
もう、俺の目には、その鮮やかさを持って映らない。
「……。」
「それでも、君と見上げたいなあ。」
振り返れば、あれが、俺たちが誰の迫害も気にすることなく過ごせた、最後の時間だったということになる。
それからのことを思えば、どうしてもっと、一つ一つの場面を大切にして来なかったのだろうと、悔やまれてならない。
ずっと、運命に翻弄されて来ただろうか。
俺は、どんな役割を演じることで、咎められずに済むかと、そればかりを考える日々だった。
Freyaを奪われずに済むには、
狼を救うには、
人間としてのあとがきを許されるには。
「じゃあこうして、ケモ吸いに耽っていられるのは、ほぼ一年ぶりって訳だね…」
「それは、無抵抗なSkaの毛皮で、思う存分していたと思うが。」
「君の背中は、格別なんだよ…」
「お日様に当てられて、ふっかふかだし…」
「何より、毛繕いの入念さが違うよね。」
「そうだな。しかし、お前が撫でるためのものでは無い。」
「そう言わずに…」
狼の大きな背中の毛皮を両手で感じたいのに、背中に広がったマントが邪魔をする。
仕方が無いので、歩き疲れて重たい身体を捩じって起こす。
「あれ…」
目の前の景色は、想定していた故郷とでも慕うべき海岸では無かった。
「リシャーダに、連れて行ってくれてるんだと思ってた。」
「お前は、本当に方向感覚が無いのだな。」
「途中で進路を変えたのに、気が付かなかったのか。」
「うん…ずっと、空見てたから。」
「それに、Skaは北部へ向かって走って行ったって言ったろ?だったら俺たちが向かうべきじゃないって思うのは、自然なことじゃない?」
「巣穴は、疾うに潰れている。あいつが赴ける場所など無い。」
「ああ…そうなの。じゃあ、どうしてSkaは…」
「俺を呼びに行くつもりだったのだろう。読みは悪くないが、生憎俺は、真反対の方角にいた。」
「すれ違っちゃったんだね。予め、伝えてくれても良かったんじゃない?」
「それが、我が狼の思し召しであったのだ。」
「二匹っきりに、なりたかったんだね。」
「話の内容聞くつもりは、無いんだけど。良い話、できた…?」
「…分からない。」
「全然、言いたいことなど、伝えきれなかった。と思っている。」
「しかし、良いのだ。」
「俺は、あの狼を忘れることは、無いんだろうから。」




