432. 過ぎ去った季節
432. Seasons Past
心を踏みにじるような灰の嵐もようやくおさまり、
一段と爽やかな風が、頬を撫でるようになった。
もっと、毛皮に突き刺さるような、お前の凍える風が欲しい。きっと彼はそう零す。
確かに耳を削ぎ落すような冷たさは無い。
でも、この景色を目にしただけで、俺は外套を巻き付け、思わず肩を震わせずにはいられないんだ。
見た目は、真冬の森と、何ら変わらない。
甘ったるい冬、そういう意味で、この灰は、砂糖菓子にも似た嘘を纏っている。
俺は、遂に狼の毛皮を身に着けたのだ、と思うこともできた。
成程、FenrirもSkaも、あの真冬の森の中を歩くことを、これくらいの寒さにしか、思っていなかった訳だ。
土俵がまるで違う、道理で俺だけが、目に涙を滲ませていた。
それでも、今既に彼らの首の毛皮の温もりが恋しく、マントの裏で右手を握ったり、平いたりしているのだけど。
けどこんな世界には、嘗て降り立ったことが無いんだ。
俺が歩いたことのある雪景色はもっと、俺に、わくわくさせてくれるようなそれだった。
いつだって焼き付けておきたいと時間を止める。
目の前に姿を現す狼が、
あんなにも胸を打つから。
吐く息が震えるから。
彼の狼を、自分はどのような景色の上に乗せて眺めたいのだろう。
ずっとそう考えていたけれど、間違っていたのだと気づかされたのは、俺が大嫌いな冬に、君は満面の笑み尾を揺らす姿を目にしてから。
彼が姿を現す時は、必ずと言って良い、俺に最高の自分を見せる時だ。
俺は、狼を追いかける身でありながら、じっとその瞬間を待ち侘びる側。
そんな関係が、一番心地よいと気づくのに、ずいぶん時間がかかった。
「Fenrirー!!」
リシャーダへの帰路は多難である。
膝を覆うほどに深々と埋まりながら、俺は真っ白な空へ向かって声を張り上げた。
物凄い積雪…いや、積灰だ。
足元まで垂れていた外套の裾をずるずると引き摺ってしまっているけれど、まあ邪魔にはならないだろう。
しかし、これは汚れを落とすのが厄介だと思った。
凍り付いた裾は、払って、暖炉の前で、椅子の背もたれに垂らして置けば良いけれど。
これはそうも行かない気がする。
あまり左右に棚引くと身体に纏うことが出来なくて足手纏いだけど、脱ぎ捨てて前に進めるほど、この体は温まっていない。
少しその場に立ち止まって、泥濘の如く質の悪い道と格闘して辛くなった息が落ち着くのを待つと、直ぐに半身から、忌々しい冷気が張り付いて来る。
ヴァナヘイムには足回りを軽くするため、橇と呼ばれる、雪原を歩くための道具があった。
狼を頼れない今こそ、ぜひその便利な代物を使ってみたい。
そう思い立って、物色に明け暮れた今日の半日。
アースガルズには、それに代わる脚が無いことだけ、分った。
彼らには、馬と、それが引くための戦車があれば良い。
「まあ、無駄足にならなかただけ、良かった…」
晴れていたのに、枝に被さった雪がまだちらついていて、木々から洩れるようにして落ちる光の屑は、まるで今までの木漏れ日とは違って見えた。
今度こそ、脚が上がらないよと弱音を吐き、白化した幹に手をかけ、
君の元へと、最後の力を振り絞って目の前の丘を駆け上がる。
今までのどんな景色よりも似つかわしい世界を生きる、
狼の姿を。
来る、そんな予感がしたんだ。
「……!!」
「おかえり…Fenrir。」
もう、逃げなくて良いんだ。
冬は、やって来る。
彼の季節を、きちんと迎えてやりたい。
「あいつは…?お前と一緒じゃないのか。」
「うん。さっきまでは、一緒だったよ。」
「…北部へ向かっていったから、すれ違っていたのかと。」
「いいや…生憎。あいつの気遣いいは、心底感服させられるな。」
「全くだね。ほんと、お世話になりっぱなし。」
「それで…」
「ああ、これ?」
左手に抱えていた布袋を開いて見せ、これは食べ物では無いことを予め弁明しなくては。
「買い物を、手伝ってもらっていたんだ。」
新しい装いを、見繕って貰っていたの。
「それは、何処でだ。あの無人繁華街に、そんな店があったとは。」
「生憎、食べ物の匂いにしか、興味が無かったものでな。」
「ちがう、違うよ。」
あっちの方。
ちょっと、西部の方へ、顔を出して来たんだよ。
「この間の噴火で、あっちも復興の真っ最中って言うから。まだ知り合いが誰も来ていないうちに、お忍び?でね。」
「よく、そんな舐め腐った真似が出来たものだな…」
「フード被って、腰曲げてれば、ばれないばれない。」
「お付きの狼が、目立って仕方が無いんじゃないのか。」
「そんなことない。彼はGeriやFrekiにそっくりだからねぇ。周りから見ても、怪しまれないのさ。」
「寧ろ、彼らと間違えられて貰えたからこそ、俺はお咎めなしに、歩き回ることを許されていた。」
「ふうん…さぞかし人懐こい、番犬なのだろうよ。」
「ふふっ…まあ、そういうことにしといて。」
「…と言いたいところだけれど。実際、被災の直後でなければ、行かれなかったとは思う。」
「そんなところへ出向いて、売り物なんて、碌に置いて無かったんじゃないのか。」
「そこは、リシャーダとは大違いとだけ、言っておくよ。」
誰が来るのか、分かっていないから、そんなことが言えるのさ。
幾ら、都会から離れて、自然に近い暮らしを楽しみたいと言っても、結局は、元の暮らしの利便性を手放すなんてね、真っ平ごめんなんだよ。
一通りは、それもリシャーダ以上のそれが、揃っていると思って貰って良いよ。
というか、はっきり言って、ヴァナヘイムよりも。
別に、比べようって訳では、無いんだけど。
「あまり分かっていないが、そんなものか。」
まあ、アースガルズの主神らが集まる別荘みたいなものなんだ。
彼らが楽しむための場所に何かが欠けている、という事態は到底あってはならないんだよ。
「王様が欲しい、と仰ったものが、すぐさま用意できないことは、家臣らにとって許されぬわけだ。」
「その通りだよ。実際、そう称するのに相応しい方々が訪れるんだから。」
「で、お前もその一人だから、好き放題できた訳か。」
「そんなこと無いよ…まあ、良くしてもらったのは、事実だけど。」
「まあ、良い散歩だったよ。懐かしい気分にも、なれたしね。見知らぬ街を歩くの、好きだったから。」
「隣に、誰かがいてくれると、よそ者であっても、表面上だけでも許される気がして、心細くなくて良い。」
「ヴェズーヴァを、Skaに連れられて、案内して貰っていた頃を思い出すよ。」
「こうやって、埋没化して、一般人とまでは行かなくても、旅人として溶け込んでいる感じが。」
そう言い終わるが早いか、彼の背後から巻き上がる西風に、俺は右手を翳し、目を細めずにはいられない。
「本当にびっくりだよ。
こんなに急に寒くなるんだもん。」
「この格好じゃ、Skaがいないと風邪を引いてしまう。」
「別に人恋しくなったから、あっちで過ごしたくなったんじゃない。必要なものを、揃えていた。」
見ない装いだと思う。
似合わないから、あんまり、変な顔しないでね。
うん、明日、着て行く予定。
「明日には、もっと冷え込むらしいよ。Lyngvi島だと、異常気象って言っても良いぐらい。」
「君たちにとっては、願っても無い天候に恵まれるってわけだ。」
「Siriusの話していた予報は、どうやら正しかったみたい。」
「そう…そうだ。」
「……。」
「もう、会って来たんだよね?」
「ああ。」
「どうだ。そのように、見えるだろうか。」
彼は少し、恥ずかしそうに首をかしげる。
「どうしたの、なんか、いつもと雰囲気が、違うね。」
「何だろう、ちょっと、匂いが、違う感じ?」
……俺に分かるのは、それぐらいだよ。




