431. 這い出 3
431. Dugout 3
「……。」
「良い夜空だ。」
すらりとした顎下を見せると、貴方はうっとりと目を細めて、元居た世界を眺める。
私は、同じ景色を見つめなかった。
貴方から、視線を逸らせなかった。
一度でも、瞬きに油断を込めてしまえば、
全て夢だと、気付かされてしまいそうな微睡の浅瀬だ。
「主は優しい。」
「主が神様でなく、心より良かった。」
「主が、誰かの命に代わろうなどと、」
「独りよがりの最期を生きようとせずに済んだ。」
「そして今、主のなりたかった我を知ることが叶い、幸せである。」
「仮初の挿入話で、こんなにも安堵しておる。」
「その証左に…」
「我は、主を忘れさせる存在になるぐらいなら。」
「喜んで、主の前から」
「こうして姿を消す。」
ぶわりと吹き上げる寒風に、貴方の毛皮から雪が舞う。
それらは、月光に照らされ、最後の輝きを一層に受けると、
貴方の身体を霞ませる吹雪となって、私から最後の瞬間を奪うのだ。
「そ、そんな…」
「受け入れてくれるな?Fenrir。我が現身の狼よ。」
「……。」
口を噤んだのが、悪手だと知っていた。
嚙み締めた唇から押し出されるように、ぎゅうと涙腺が痛んで瞳を使いものにならなくさせる。
「そうだな…」
「我から、言いたいことは、これぐらいだ。」
「もし、我に、主のような、勇敢で、怖がりで、甘えん坊で、可愛い…」
「優しい息仔が、おったなら。」
「っ……」
「父親ぶって、こんな説教をしただろう。」
「誰かを偶像として、敬い、尊び、その人の為に生きることをしないで欲しい。」
「その人が、貴方の前から悪意無く姿を消した時、其方そのものが消える。
…失い傷つくぐらいなら、予防線を張れ、そう主張していると誤解するな。
主の生きる指針は、主の中に持てる。
どうか、探り当てよ。」
「我は、主の中に息づいておるやも知れぬ。
だがそれは、決して主を、どんな事が起きようとも支え続ける力とはならん。」
「ある時ふと、裏切られたような、突き落とされたような、空虚な損失の機会に出会うだろう。
死別よりもっと唐突で、何気ないものだ。」
「貰えると思った優しさを向けてくれなかったり、自分の前から、何も言わずにいつもと違う表情を向け、姿を消してしまうだけで。」
「それが渦巻いて、考える力も取り戻せぬままに立ち尽くす深い穴に変わるだろう。」
「その穴を埋めたいのに、我はおらぬ。」
「そんな...そんなことない。」
「そう言ってもらえる事が、どれだけ嬉しいか。主よ。」
「しかし、おらぬのだ。
その時、我が姿を現さぬこと、きっと憎む。」
「主は優しい。
我と同一であろうとした主が、我を憎むなどあり得ないと思うやも知れぬ。」
「薄情になれと言うのではない。
しがらみから解き放たれよと諭したいのではない。
我は無力であると罵るが良い。
しかし冷淡に諦めよ。」
「生きる意味は、主に在れ。」
「下らないか?こんな話。
しかしそれだけ伝えに参った。」
「我では主を、救えない。」
「どうかその意味を、理解してはくれないか。」
「我の無力を憎むと良い。」
「けれども、主は生きる道そのものに佇む我から視線を外すべきなのだ。」
「いつも側に居たであろう。」
「我が都合の悪い過去を意図的に見せなかったように
主は意地でも誠実であり続けようと直向きだった。」
「まるで神様のように。」
「素晴らしいことだ。」
「しかしそれでは主は達成されぬ。
幸せ、と言っても良いやも知れぬ。」
「で、でも……。」
「私はぁ、狼です…。」
「それだけが、どうにか私を怪物から遠ざける鎖なのですっ…」
「そして狼であることに、生きる喜びを覚えるのなら…やっぱり、貴方が故が良い。」
「貴方しか、私を狼と定義しない!」
「そうか...?」
「…結局は、そうなのかも知れぬな。」
「正しくあろうとして、無茶をするなよ。」
「神様を尊ぶことはあろうが、頼ることはあってはならぬ。
Teus を神様として信じるな。
頼るのなら、友として、慕って欲しい。」
「そして、我は主にとって、親友であっただろうか。」
「そうであったなら、これほど嬉しいことは無い。」
「これで、終わりだ。」
「…最期には、必ず助けに来るから。」
「ま、待って…」
置いて行かないで。
心から出かけた言葉を、既の所で噛み殺し、飲み込む。
「す、少しだけ、準備させて…下さい…」
落ち着いて。
この日の為に、ずっと、練習して来たんじゃないか。
怖がらなくて良いから。
貴方が返事をしてくれないかも。
そんなことを、考えたって、もう100万回は、繰り返してる。
次の1回目には、重ねてくれるかも。
そんな期待に、希望に、首元を擽られながら。
“すぅ……”
ほら、喉を締めないで。
もう、傷口に、痛みを確かめさせる必要なんて無かったんだ。
見て、もう痛くないよ。
友達が、治してくれたんだ。
“アウォォォォォォーーーーーン…”
“……。”
“ふふっ……”
彼は目を伏せ、自らも仰け反り、首筋の縫い目を晒す。
“ウォォォォーーーーーーーーー……”
最高の、タイミングです。
今度は、私が、息を継ぎ、
後に続くのですね。
そうしたら、貴方が休めるから。
“……。”
続けて?
泣いている暇なんて、聞き惚れている余韻なんて、一秒も無いよ。
“ウォォッ…アウァゥォォォォォーーーーーーーー……”
“ウゥゥゥゥゥッ……ウォォォォォォーーーーーーーーー”
私とFenrirは、そうして毛皮を交差させ、
この世界に、再び大狼が一匹取り残されてしまうまで互いを見送り、
“”アウォォォォォォ…ウォォォォォーーーーーーーーーーーーーーー……“”
息が切れるまで、喉に血が絡むまで、
交代で、白い息を登らせ、吠え続けたのだった。




