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【続編連載中】Wolfhound(ウルフハウンド) ー神話に殺された狼のやりなおし  作者: 灰皮 (Haigawa Lobo)
第1章 ー 大狼の目覚め編
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5.泥沼

5.Mortuary Morass


覚醒すると、目の前には、いつもの光景があった。

「夢、か…。」


風化して居心地の良くなった一枚岩の上で、俺はいつものように長い昼寝を決め込んでいたらしかった。

黒緑の艶を湛えた巨大なその岩は、照明のように落とされた木漏れ日のお陰で暖かく、気持ちが良い。お昼寝には格好の場所だった。

「…。」

気分は、非常に穏やかだ。

陽の光がいつもより輝いて見える。寝起きでぼやけた視界が楽天的な世界を映し出していた。

こんなにほんわかとした春には、思わず和んでしまう。自分には似合わない。


目覚めたことを、幸運に思った。

あれから先の夢は、見たくない。生きてきた中で、最もつらい体験であったように思う。

…あれから、俺はここへ来たのだった。


なるべく定めの通りに、生きてきたつもりだ。

人あらざるものとして、 狼として、 怪物として。


泣き寝入りすることもなくなった。

強くなったのだと嘯いてみるのも良かったが、それも諦めた結果である。

気分は、非常に穏やかだ。

心に大きく空いた穴を、それとはき違えているだけだとしても、それで良かった。

埋める努力はしてきたのだ、起伏の多い道であったように思う。

この先は平坦であることを、心から望んでいる。

苦しい思いはもうたくさんだ。…いいや、違ったな、

耐え難い痛みにのたうち回って、このまま終わってやる。


このまま、終わる…。

のろのろと立ち上がり、その言葉の意味を考えた。

眩暈がひどい。そのまま棒立ちになり、治まるのをまつ。


いかにも平和そうな午後だった。

淡いぬくもりが、自分の緩慢な動きと相俟って、ゆっくりと衰えていく未来を暗示させる。

このまま終わるとは、文字通りそんな意味だ。


洞穴へと潜り、あおの亡骸のもとへ赴く。

冷たく陰湿なこの空気は遺骨の劣化を速めており、大部分は崩れ去り、遂にはもう、頭部の面影しか残してはいなかった。


牙だけは、そのまま。赤黒く染まって、あの頃と変わらないままだ。

頭部の罅に沿って爪をなぞらせる。いつもより、獣の骸に触れる意味が重い。


「もって、あと数日だ…。」

響く声が、別人のようだ。こんな弱々しかったとは。


「もうすぐ死ぬんだ…。貴方と同じように、ここで。」

そう、俺もこうなるのだ。死んで、腐って、骨になって、風化して、跡形もなく、消える。


「だが、あなたには…、死んで、悲しんでくれるやつがいたのだろう?」

少なくとも、俺は悲しかった。そう心の中で続ける。


「でも俺には、いないんだ…。」

そしてまた、せがむように、屈んで首筋を牙に近づける。

よく把握した傷口をすぐさまあてがい、思いきり突き立て引き切る。


「んぐっ…、げほっ…、あ゛ぁ…。」

深々と牙が喰い込んでいく。

痛い。慣れ切った一連の行為であるだけに、漏らす言葉も簡素なものだった。

痛みをしっかりと感じているはずなのに、逆説的な結果として少しも楽になった気分になれないのは、難儀なことだった。

ということは、さして痛くないのかもしれない。

冷めきった頭で、ずいぶんと威勢の良いことを言う。

俺は、苦しんでいなくてはならない。それが一番良いはずなのだ。

確固たる意志のぬかるみに嵌まり込んでいく。




首筋から、変な音がする。

気道に穴が開いたらしい。

呼吸が苦しい、息を吸おうとしても漏れていく。辛い、無理にそのまま耐えた。


口の中に何かがせり上がってくる。気持ち悪い。

喉元でなんとか飲み込もうとするが、肝心の首は穴だらけで機能しない。

なにも抵抗できぬまま、大量の血反吐を吐き出す。気管が血で満たされ、息ができなくなる。


途端に身体が、一気に重たくなった。酸欠と、出血とが、致命傷となる深さで俺を襲う。

まるで強力な一撃を喰らったかのように、俺は目を大きく見開いた。

突如として浮遊感に襲われる。どうすれば良いのかわからない。




死ぬ。



そう思った。

苦しい。



…このまま、とどめを刺せはしないだろうか。



俺は牙を引き抜き、その場に倒れ込んだ。



生温い血だまりに身体が浸り、惨めに死に絶えていく自分を感じる。

けれどもそんな言葉に反して、自分の血に俺は、一切の温もりを感じられずにいた。


冷たい。溶けた氷のように触れがたいその液体は、異常に冷たい。


兇漢のそれは、文字通り冷血なのだろう。

寒い、このまま冷たくなるのだろうか。どこか空中の一点を見つめながらそんなことを自問する。


早く意識がなくなれば良いと思った。そうすれば、余計なことを考えずに済む。

余計なこと、か。それは端的に言うと何だろうかと、誰かに向けてとぼけて見せる。

…。




俺が生きること、だ。





全身が震える。怖い。身体が全く動かない。

なんとか息をしようと喘ぐ自分がいた。

きつく目をつぶり、必死で、狂ったように息を吸おうとする。

怖い。





「……。」

気が付いたら、俺は乾いた血だまりの上にそのまま寝転がっていた。

傷口は塞がり、もう血は吹き出てはいない。震えてはいるが、息もできる。



まだ、生きているらしかった。



這うようにして洞穴から逃げ出す。

陽の光は、死とは無縁であるかのようで心から安堵する。

再び見舞われた眩暈に今度は耐えきれず、その場に倒れ込む。

血は足りていないらしかった。



自殺未遂、と言って差し支えない。

何度同じことを繰り返せば気が済むというのだろう。


はじめは、彼の獣につけられた傷が愛おしかっただけなのだ。

それが次第に、自分は苦しんでいなければならないという信念のための道具になっていったのだ。


彼の亡骸をそのように扱うことを、心から後ろめたく思っているのに、どうしてもやめられない。


自分は苦しみ続ける存在なのだ。俺は苦しんで…。






この森で暮らすことを許されたのだ、と考えれば、それ以外の選択肢をとることはいくらでもできた。

新たに与えられた、狼と言う怪物に相応しい生き方。

幸福を享受することにすら不安を覚える俺であってすら、それなりに苦しかったが、決して悪くなかったと思うのだ。

それなのに、それがもう、今となってはできない。





醜い自慰も慣れてくると、死ぬ間際、というのが分かり始めてきた。

より酷く傷めつけてやろうと、文字通り自虐に対して熱心であった俺は、とても満足だった。

これ以上深く抉ってやる必要はないとわかったからだ。

受けた傷は重く、凄惨を極めたが、それでも良かった。



それが最近になって、俺は死の淵に自ら赴いておきながら、そこで思い悩むようになっていた。

もう一歩勇気をもって踏み出せば、この物語の終焉はすぐそこにあった。

かれこれ何年だろうか、短かったな。


俺には、この結末を選ぶ必要があった。

死ななければならなかったのだ。それが正しかったと示される前に。

なのに、もう少しで死ねたというのに。




逝く寸前で、俺は自分のことが大好きになった。

死ねば良いと言葉では繰り返していても、最後の最期で怖くなって、死にたくないと子供のような声で哀れっぽく鳴いて甘えるのだ。


怖い?そんな言葉を吐いた覚えはない。




死にたくない理由は何だろうか。それは確かに死にたい理由を探し出すよりも難しいことだ。

そしてそれが無くとも、生きていれば良いのではないか。

そう信じて今まで生きてきた。生かされてきた。

しかし最早、そんな言い分も鼻で笑ってしまう。




俺は苦しんで死ぬべきだという狂った信念は、その根を骨の髄まで張り巡らせている。

改めるには、それこそ心中するよりない。


それで俺は、今回の失態の言い訳として、より凄惨な最期を自分に約束するのだった。

恐らく、俺は苦痛に絶叫しながら死ぬのだろう。

だからこれは求められている最期ではないのだ、と。










いかにも、平和な午後だった。

陽だまりは、俺に優しい光を投げかける。

なんとか立ち上がり、恨めしくその光の主を睨む。




俺は焦っていた。

結論を急がなくてはならない。

いつまでもこの馬鹿らしいやり取りを続けている場合ではなくなったのだ。




俺は早急に終わらねばならなかった。

つまりは、自分が満足できる死を、自分が満足できない可能性が迫りつつあった。



餓死だ。



この森の、一見広大な土地の中で、巨大な狼の飢えを満たすだけの動物がいなくなるのは必然であった。


僅か十数年で、需要と供給の天秤は壊れた。

今、この森に獲物はまだ残っているのだろうか、それすらもわからない。

いたとしても、ゼロに近い。





檻の中に、餌も与えられず放っておかれた獣だ。





自決か、餓死か。

ずるずると引きずって、穏やかな死だけは迎えるわけにはいかなかった。

俺は苦しんで死ぬべきなのだから。

結論を、急がなくてはならない。






その日は火曜日だった。

ある時、俺は死について悩む必要がもうないと知る。


俺の耳が、遥か遠方から歩いてくる足音をとらえた。

このリズムは、間違いなく二足歩行。

誰かが来る。

この俺にはじめて、客人が来る。





俺は笑ってしまった。

神様たちは、俺が餓死寸前であることを知り、好機と見るや弱った俺の息の根を止めに来たのだ。

なるほど、俺をこの森へと追放してから、全て計算済みだったという訳か。

その御手の中で、俺は踊らされていたということだ。


まあ良い。

あいつらならば、俺のことをさんざん苦しめてから、嬲り殺しにしてくれるに違いない。

それで皆が喜ぶなら、めでたい話ではないか。







この距離ならば、あと二、三日で俺は死ねるはずだ。

「さぁ…、殺せよ。」





揺らぐ陽の光が、神の威光か何かのように見えた。

惨めに這いつくばう自分が、勧善懲悪小説の悪役に思えた。

おそらく俺は、このあと神から天罰を受ける。

…当然の、報いとして。


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