429. ここ掘れ 11
429. Dig it 11
「さあ…着いたぞ。主よ。」
「うん…」
Fenrirの鼻先から滑り降りると、暗がりに目が慣れるのをじっと待つ。
道中も真っ暗で、がむしゃらに彼の背中にしがみ付いていたけれど、いやはや酷い乗り心地だった。
こんなに気持ち悪いの、不在の兄さんの変装させられて、宴の席でお酒を浴びるように飲んだ日以来かも知れない。
特に最後の、意味不明な急降下は、僕の三半規管が、どうにかなってしまったようで、まだ頭がちょっとふらついている。
此処は、どこだろう。
背後で、轟々と微かに水の音がするから、ヴァン川の源流に近いのかな。
それでもヴァナヘイムからは、ずっと遠いのに違いない。恐らくは、かなり北上した先の渓谷の狭間に作っているのかな、などと、勝手に想像してみる。
仔狼たちが、自分の脚で散歩へ出かけられるようになるまで、誰も寄せ付けない巣穴だと言っていたけれど。
この大狼が一緒に寄り添うだけの広さを備えていることぐらいしか、分りそうになかった。
その場にぼうっと立ち尽くして、吐き気に耐えていると、頭上から唐突にぐわりと脳を揺らす反響音に降られて、危うくその場に崩れるところだった。
「…どうした、行かぬのか?ダイラス。」
「えっ?ああ…」
小声でも十分飛び上がりそうなくらい、迫力があること、この狼には自覚なんて無いんだろう。
「ちょっと、待って…」
兄さんの衣装を身に纏い、いつもとマントの留め具のフックが逆側になっていることに気づかず、暫く手先がもたつく。
肩をゆすって外套を落とし、左腕に下げると、今度はこれまた反対側の肩から掛けた鞄を弄り、自分の指ほどの細さの枝木を取り出した。
「……。」
右手の親指と人差し指で輪を作り、その隙間に映った先端へ息を吹き込み、青白い灯りを宿す。
雲間に霞んだ月明かりのように、控えめで見守るような光源だが、今は仕方がない。
周囲が僅かに照らされ、岩がちな足元が露わになった。
全然気づかなかったけど、裾にこびり付いている血痕は、ひょっとして、これを止血に使ったんじゃ無いだろうな…。
幾ら何でも汚いよ、こんなんじゃ。人間じゃなくても、もっと清潔な布を用意してやれと思う。
そして、前へと翳すと、どうやら奥へと続いていそうだ。
「…先に行って良かったんだよね?」
「主は常々、我の尾に着いて歩くのを嫌がるだろうが。」
「だって、あんなに見せつけておいて、全然触らせてくれないんだもの。」
「生憎、飾りでは無いのでな。」
「先導するのに、繋ぐ手の代わりになってくれても、良いんだよ?」
「そうするぐらいなら、主の首根っこを咥えて、良く見えるよう、ぶら下げてやる。」
「それは…ごめんだわ。」
「さあ、無駄話に耽っている場合では無いぞ。」
「…わかったよ。」
ああ…もう。此処まで来ておいて、本当に何しているんだろう、僕って。
短くため息を吐くと、Fenrirに背中を突かれる前に、竦んでしまった足を無理やり前へと踏み出す。
転ばないように、それこそ、マントの裾が邪魔で、兄さんも此処で脱ぎ捨てていたのだと思いたい。
しかし僕に、目を瞑っていても分かるとでも言わんばかりの芸当をさせるということは、兄さんは、相当にこの巣穴へ通い慣れていたのに違いない。
貴方を探しに、森の中を、一人で追いかけるような勇気を振り絞らなくて、本当に良かった。
緩やかな傾斜を下って行く時間は、無限の回廊のように感じられる。
日中であれば、奥まで見通せるだけの広さを見渡して、たったこれだけの距離を、びくびくしながら進んでいたのかと拍子抜けするのだろうけれど。
目的地も知らされずに、暗闇の中を歩き続けるのは、相当に精神を摺り減らされた。
自分の気配で、その母狼が先に居場所を知らせてくれるかと期待したが、全然、そんなことは無い。
逆に、目の前に、狼の存在を感じ取れないことにも、不安を覚え、今やそれは恐怖となって最高潮に達しようとしていた。
たとえ息を潜めていようと、すぐ近くにいるのなら、’いる’ことぐらいなら、分かりそうなものだが。
だって…
“ただいま、今帰ったぞ。”
「…っ?」
心臓が止まるかと思った。掲げた光源がぶるんと震えたので、伝わってしまっただろうか。
純粋に、面喰ってしまったのだ。
人間の言葉ではない。
想像もしないほどに甘たれた鳴き声が、自分の耳元で漏れたから。
“キュゥゥ…”
「あっ…」
目の前にいる。お帰りなさいって、言ってるんだ。
今のは、狼の言葉であっても、意味が分かった。
「え……?」
しかし、理解できたのは、それだけだった。
「一匹、だけ……?」
いや、違う。
僕は自分が、とんでもない勘違いをしていたことに、ようやく気付かされた。
そもそも、前提が間違っていたのだ。
こんなに大きな狼の妻に相応しいのは、それよりも一回り小さい程度の、これまた大きな狼であるに違いないと。
そして、その二匹によって産み落とされる仔狼が、ようやく自分たちの目にする狼と同じ体格を有するのだと。
しかし、違うのだ。
兄さんの言っていた意味が分かった。
奇跡の仔を孕んだと。
どうして、こんなことが…?
でも目の前に横たわって、薄目を開いて僕を認めているのは、大狼の仔ではない。
彼女が、番…母なのだ。
実際、描かれた弧に収まる小さな蠢きは、きちんと彼女が一介の母狼であることの何よりの証左だった。
全部で、5匹の赤子が、ぴったりと身を寄せて、乳房に吸い付いている。
いや皆、寝ているのか…。
目も、全然開いてないや。
小さな耳が無ければ、薄焦げ色の抜け毛の塊が、転がっているだけと思うだろう。
時折、ぴく、ぴくと動くのも、彼女のお腹の膨らみに合わせて揺れているだけなのか。
それとも、最後の一匹を待っているのか。
「……。」
僕は、この雌狼に敵意が無いことを示す必要があったのか、分らなかったが、ゆっくりと、近づいた。
表情の機微を決して見逃すまいと、瞬きもしない。
威嚇の兆しが見えたら、直ちに退くことが出来るように。
“グル……”
「っ……」
しかし、凝視することも、却って彼女を怯えさせる仕草となることを、失念してしまう。
“大丈夫だ、我が妻よ。もう少しの辛抱だから。”
“きっと、我が友が、其方と、我らの最後の仔を救ってくれる。”
Fenrirが何かを語り掛けると、雌狼は、耳を横に引いたままではあったが、上唇に込めていた力をすっと抜いた。
「大丈夫だ、主よ。」
「済まなかったな…主には、あれだけ心を許しておったのに。」
「…彼女も、苦しんでいるのだ。分かって欲しい。」
「ごめん…俺も、その…」
「どうだ、具合を、見てやってくれるか。」
「うん……」
「あまり、時間が無さそうだ。」
「ちょっと、お腹の様子、見せて貰うね。」
“クゥゥゥ……”
“我も、一緒にいる。絶対に、傍にいるから。”
“だからどうか、怯えないで。”
“こうして触れていれば…”
“ほら、きっとわかる。”
“我もまた、怖かったのだと。”




