429. ここ掘れ 10
429. Dig it 10
「復活呪文だって…??」
「何を、馬鹿なことを言っているんだ、ダイラス兄さん!?」
久々に帰って来たと思えば、これだ。
弟を夜更けに叩き起こして、することと言えば、ヴァン川の向こうで見つけた狼の話ばかり。
奥さんの所へ行かず、直接こっちに来ている。根拠は無いけど賭けても良い。
「俺は大真面目だ。…ほら、ちゃんと、俺の目を見て。」
しかし、今夜の兄さんは、輪をかけてと言うか、明らかにおかしかった。
血相を変えて、底冷えの酷い僕の寝室に飛び込んできた姿は、何処か自分の面影を失ってしまっているようにさえ見えたから。
俺が寝ぼけているか、啓示にも似た悪夢を見せられているので無ければ。
「頼むよゴルト…お前しか、頼れる相手がいないんだ。わかるだろ?」
そう、
その頼み事は、度を越えていたんだ。
死産した仔狼を、蘇生してほしいだなんて。
どうやら、兄さんは、ここ数日、その大狼の子供の出産に立ち会っていたらしい。
何を言っているのか、全く理解出来なかったが、
兄さんが言うには、狼のリーダーに、番の仔狼たちの助産を手伝って欲しいと頼まれたのだと言う。
人間の言葉を操る狼の存在を、僕が特段驚かず、既知の事実として受け入れたことを訝しまなかったのは、
兄さんの気が余程動転していたからなのだろうが。日記を盗み見ていたことを悟られずに助かった。
それにしても、不思議な話だ。
母狼が、難産の予兆を自らのお腹に嗅ぎ取っていたということだろうか。
兄さんは先週から、外出中は母狼の様子を殆ど付きっきりで、具に観察していたのだと言う。
それで段々と彼女の落ち着きがなくなり、食欲を全く持って示さなくなった為、今夜あたりが峠だと確信していたらしい。
お腹が張りだして、陣痛が起こり始めたのは、夕方のこと。
ちょうど兄さんが、夕食も食べきらずに家を出て行った時間帯だ。
どうして、お嫁さんの出産に立ち会うことさえしなかった兄さんが、そんなことを知っているのか。
でもそれは確かに、胎子が移動し娩出される合図だ。
そしていよいよ破水が起こると、羊膜に包まれた胎児が、羊膜から出た状態で娩出される。
人間よりも、もっと熱くて、そして、小さかった仔狼たちが両手に握られた時の感動を、兄さんは興奮気味に語った。
「でも…何か、おかしかったんだ。」
「最後の6匹目が、一向に出てこなくて。」
分娩の間隔が、先までは30分から1時間の間だったのに。
そこからかれこれ、2時間は経っている。
やるしかない。
母親の容態も芳しくなかったから。
先までは荒かった呼吸状態も、今やぐったりしていて、痛む様子さえ見せない。
大狼の罵声を制して帝王切開に踏み切った時の緊迫した様子を、事細かに僕へ報告しようとするので、僕は視界を覆ってそれを制した。
「や、めて…もう良い、分かったから!!」
兄さんの両腕にこびり付いた血が、人間のそれでは無い事実から目が離せなくなって、何も耳に入っては来なかったから。
卒倒してしまいそうな眩暈に中てられ、酷い吐き気がする。
「そ、それで…その仔は…?」
「…駄目だった。」
その胎児の生死は、もう手の平で握っただけで分かった。
息をしていない。
すぐに蘇生に入った。
羊膜を優しく剥がして、口と鼻を吸引し、激しく擦って刺激する。
しかし、一向にその一匹だけは、ぬくもりを右手に灯さなかったのだ。
このままでは不味い。
でも、とても一匹だけはもう死んでいるなんて言えない。
こうして、母狼の助産をさせて貰えている状態が既に奇跡だ。
もし、自分の手違いで、一匹死なせてしまったと父親が誤解したら、俺はどうなる?
怒り猛った大狼に、喰い殺されるだけなら、
それから延々と悲しみに暮れてくれるなら、まだ良い方で。
それでも治まらない恨みの矛先が、どこに向くかは、想像もしたくないことだ。
これは絶対に失敗してはならない ’取り上げ’ だったのだと思い知らされるが、もう遅い。
弟だったら、何とかしてくれるか…?
そう思った兄さんは、咄嗟に、取り返しのつかない嘘を吐いた。
この仔は、必ず救って見せる。
今は、息をしていないけれど、お腹にもう一度戻して、暫くすれば、
元気になって、もう一度生まれて来るって。
「……。」
「そう言う、訳なんだ…」
「……は?」
そう言うって、どういうことだよ。
呆れた兄さんだ。
眠りを妨げられた瞼が、言葉にならない怒りで、ぴくぴくと痙攣する。
「そんなの…無理に決まってるだろ!?」
「分かってるだろ!?」
「人間でさえ、あれだけの禁忌を犯したのにっ…!!」
そう、あの時のダイラス兄さんは…
ある種、本当に神様にでもなった気分でいたのだろう。
兄さんは、死産した仔狼さえも、救ってやりたいと言い出したのだ。
自分の、娘だけでなく。
「それとも兄さんは、自分の大切な誰かの為なら、他の誰かを犠牲にしても良いとでも、本気で思ってるのか!?」
僕が屋敷の使用人を起こしかねないような叫び声をあげるとは、思ってもみなかっただろう。
その強烈な一言が、貴方の目を醒ます一撃になればと願った。
実際、兄さんは、面食らったような表情を、ぼんやりとした濃淡ではあったが、暗がりに浮かべたのだ。
しかし、それも一瞬の気の迷いに過ぎなかったのだろう。
ベッドに突いた両腕で、毛布を握りしめ、兄さんは落ち着いた声音でこう呟く。
「……。」
「それに、俺がまだ値するなら。」
「……。」
やっぱり、兄さんは、とんだお人好しだ。
そんな、馬鹿げた理想を、平然と言ってのける。
「俺の命が、それに値するなら。」
「…でも、でも、無理だよ。」
「だって…一回きりだ。」
兄さんは、もう、その命、使い果たしたんだ。
もう、藁の上で眠ろうとも、地獄で平穏に生き永らえる命さえ、残ってはいないんだ。
「彼女に…彼女にもう、兄さんは…」
「兄さんは、愛情を、渡したんだろう…?」
「……。」
「…分かってる。」
「俺にはもう、誰かの命を救えるような力は…代償は、残ってない。」
「でも…」
「……?」
その僅かな躊躇に、彼の決意がはっきりと透けて見えたのは、
やはり双子の間で、言い表せない、情意統合があったからなのだろうか。
いや、そんなことない。
僕の所へ来たのは、初めからそういう下心があってのことだ。
自力で何とかできるのなら、とっくの昔に、全部自分が潰れるまで背負いこんでる。
それに僕には、兄さんの気持ちが、これぽっちもわからないよ。
「ま、まさか…」
「僕にも、地獄の底へ一緒に堕ちろって言っているのか!?」
「……。」
「ふざけないでっ、兄さんっ!!」
「僕が…僕が、兄さんの望みを、なんでも叶えられると思ったら大間違いだっ…!」
「そんなに…そんなに、狼と一緒が良いなら、本望じゃないかっ…」
「兄さんなんかっ、狼に喰い殺されてしまえば良いんだっ!!」
「……っ!?」
「お願いだから…もう、お願いだから、目を醒ましてっ!!」
「……。」
兄さんは、暫く黙った。
弟に、そんなことを言われるなんて、思ってもみなかったのだろう。
ずっと一緒に、どんな試練だって、乗り越えられると思っていたから。
もし僕が、兄さんに、お願いだ、助けてくれと泣きついたときに、同じように返されたら。
そんな意趣が、ちくりと首筋を刺した。
「…ごめん。ゴルト。」
「今の話は、忘れてくれ。」
「ごめん…その、本当に、どうかしてた。」
「…俺が、俺が、自分で何とかするよ。」




