429. ここ掘れ 9
429. Dig it 9
「どうした、ダイラス。浮かない顔をしているな。」
我がそう語り掛けても、触れる主からは、いつもより早く打つ鼓動を聞いた。
「え…どうしたの。藪から棒に。」
「口だけは閉じられない奴が、今日はやけに押し黙ると思ってな。」
そう言ってやると、主はどぎまぎした様子で、何でもないと答える。
「悪かったね、Fenrirこそ、今日はちょっと優しいパパにでもなった?」
今日は、とはどういう意味だ。
我は耳の間を広げて、不本意な物言いが乗客に及ぼす危険について諭そうか迷った。
「いつもは、何と言ったか…あれを、やろうとするだろう。」
「何さ、あれって…」
「ほら、あれだ…けも…けもなんとか。」
「…ケモ吸い?」
「そう、それだ。」
「…やって良いの?」
「そうは言ってない。」
「じゃあ何で催促したのさ。」
「誰も、一言も、そのようなことは言っておらぬ。」
「ちょっとだけ。」
「…口は禍の元よ。」
「お互いに、お利口に口は閉じられないってことだね。」
「……。」
そう、その意気だ。
いつもの主に、戻って来た。
でなければ、我はこうして調子を狂わされるのだ。
危うくその安堵を口にしそうになり、呆れた我は気怠く歩調を早める。
しかし、これでは、妻を看病する、我の気を紛らわす会話ともなるまいて。
「大丈夫、ちょっと最近、色々あり過ぎてさ。」
「ごめんね………。」
何があったのだろう。
それが、主と人間の間でのいざこざに依るものであると我には想像できる。
苦しかった。主が自ら川を渡り、鉄の森へと足を踏み入れておきながら、尚それを引き留めようとする輩の気持ちを思うと、我は主をどう諭せば良いか分からぬ。
我が花嫁が、時折人間の彷徨く川の向こうへと歩きたがるのを、どうにかして止めさせたい我が一族の心境と似ていよう。
初めからそう思っていた、と言えば嘘ではない。
主は、やはり相応しくないのだ。
闇も深みに潜ると、我らの帰還に気づいた同胞たちの息遣いが、そこら中に露わとなって来る。
“ウッフ……ウッフ…!”
直接、我が妻の眠る巣穴へ向かう前に、一度彼らの潜む洞穴へ立ち寄ろうと思ったのだ。
いつも、こいつがそのようにせがむから、そうしているに過ぎないのであるが。
我自身も、群れの長として、不在の間があることに、負い目を感じているからというのもある。
気付けば、随分と賑やかな大所帯になったものだ。
加わったはぐれ者こそ多けれど、この縄張りを去った者は、一度も見ておらぬ。
皆が我を慕ってくれているとは感じないが、それでも、共に生きることが、これほど互いに有益であると感じられる群れも、そうそう無いだろうとも思う。
“ぐるる…”
五月蠅い奴らだ。足元に近寄るな。
そんなに、こいつに会えるのが嬉しいか。
ボスのお帰りには、そんな風に尻尾を振ったりしない癖に。
分かっておるぞ、主らの目当ては、毛並みが乱れるまで、腹の毛皮を此奴に弄って貰うことだ。
「ん…お出迎え?誰かな、ありがとうね。」
月明りだけが導となる森の中で、我の背中に寝そべる主には、下界の期待で蠢く烏合の様子が分かるはずもない。
主の声を聞きつけただけで、この騒めきよ。
「悪いが、今宵は此奴らの遊び相手を頼んでいる暇はない。」
「それは…残念。」
主らに困りごとが無ければ、それ以上望むことも無い。
時折、彼らの間で起こる諍いを諫めるだとか、
狩りが上手くいかず、食事が滞っている家族に獲物を行き渡らせるとか、
病気や、怪我を負っている者を、主に診てもらうこと。
我がしてやれることは、本当にそれぐらいだ。
「元気そうなら良かった。またね、みんな…」
大事な時期なのだ、分ってくれ。
我は尻尾を翻すと、強引に、同胞らの挨拶を振り切った。
遠吠えの大合唱でも始まってしまえば、暫く此処から抜け出せそうにない。
「ほら、もう仕舞だ。行くぞ。」
「えっ?うん…」
足元に群がる仲間たちが、慌てて散り散りに走り去って行く。
木の根の影から覗かせる瞳の数々に、我は焦りを見透かされているような気がしてならぬ。
それだけ、神経を摺り減らされておるのだ。
「どうしたの、何か…」
どうしても、最悪の結末を拭えない。
一瞬でも目を離せば、
彼女が、我の前から姿を消してしまう気がして。
そんな悪夢が、日に日に。仔狼より健やかに育つ。
「何か、嫌な予感でも…?」
「いいや…」
「何でもない。」
「少し急ぐぞ。掴まっておれ。」
「ま、待って、Fenrir…」




