429. ここ掘れ 8
429. Dig it 8
これは、旅立つ貴方を呼び止めるような言葉だと思った。
笑って見送るべきだ。そうと分かって、子供じみた我儘を言うなどする。
“Garmが羨ましい。”
そんな焼餅って、あるだろうか。
彼がいっぱいに受けた愛情とは、即ち貴方自身が集めた尊敬であるだけでなく。
やはり貴方によって祝福された存在であることこそが、一番の貴方による愛情であるような気がしたからだ。
“私のことも、もっと、可愛がってくれませんか?”
Skaは、何の恥じらいも無く、そんなことを求めて見せる。
きっと、自分がそれに値すると、小さい頃から確かめられてきたからに違いない。
俺は、どうだろう。
こんなに、必死だ。
でも私も、欲しいのです。
我が狼。貴方の愛情が。
“……。”
こんなに美しい夜でさえ、いずれは明けて、青い世界がやって来る。
そうなった時、今度こそ、もうすぐお別れです。
また、次に会えるのは、彼女の言う、この世の果てが訪れた時。
その前に、どうしても、何か言いたいことは無いか。
そう考えた時、ありがとうとか、きっと貴方の名に恥じぬ狼でありますとか、そんな言葉を贈る前に、
こんなお願いが湧き出てしまった。
俺は貴方から生まれた幸せな仔狼でありたいのだ。
まだ、欲しいなどと言ってしまいます。
ずっと、この口を開いて、喰らってきました。
それは、貴方と一緒にいたいという願いから、少し変容を遂げていることに自分でも驚いている。
私は、貴方によって特別でありたく、嘗て貴方であったことに誇りを感じ、それに支えられながら生きていたかったのだ。
“主よ……”
困惑らしい憂いが、貴方の表情を曇らせていたのは、初めの数秒だけだった。
遠吠えに耳を傾けるように目を伏せると、すぐに、どうするべきかを理解したかのような、確信の凛々しい面持ちで歩み寄る。
“済まなかった。Fenrir。”
その瞳には、慈しみの心が、ありありと溢れ出ていた。
その名が、貴方の口から紡がれることに、こんなにも動揺させられる。
だが、それ以上に私を狼狽させたのは、貴方に、その名を関する狼の面影を見たからだ。
“何も、してやれなくて。”
まさか…
泣いて、いらっしゃるのですか…?
“主は、己の痛みを、分かち合うことも許さぬ。”
“そして我は、和らげることすらも出来なかった。“
“我に、なりたいか。”
“主が、生半可な意思で、そのような言葉を吐く奴ではないと、知っておる。”
“どれだけの思いで、己を削ぎ落して来たのかも。”
“だから…だから、無下にされたと、受け取らないで欲しい。”
“しかし主が、我の足跡を着いて行こうとする必要は、何ら無いのだ…”
“主が進む先は、穏やかである。我はそのように確信しておる。”
後退りしそうになるほど、額を強くぶつけるられ、
貴方の啜り泣きに、私は寝転がって赦しを乞うことでさえ足らない。
“しかし…”
“しかし、もし、我に何か、してやれることがあるのなら…”
“まだ、我に、何か……”
そう呟いて、一匹狼が通れるだけの隙間を私の間につくると、
一手を絞り出すような険しい眼差しで、じっと私の足元を見つめていた。
“……。”
“…そうか……。
“…わかった。”
“我が、主に伝えたいことは、きっとこれに、違いあるまい。”
“目を逸らすな。”
“真実の話をしよう。”
“主が、これからを生きる支えとならんことを。”
――――――――――――――――――――――
そう、主はその日、違う匂いがしたのだ。
「お嫁さん、様子はどう?」
「特に、変わったことは無い?…子供たちも。」
我の姿を認めるなり、其方の第一声は、いつもそれだ。
「うむ…」
ヴァン川の畔で、いつも通りの待ち合わせ。
主は、水に足元を一つも濡らさずに対岸へ辿り着くと、此方が姿を現すまで、じっと水面に映る己の姿を見つめ、項垂れておった。
少し、肌寒い夜だったと思う。
強く風で足元の影が揺らぐたび、主は外套を身体にきつく巻き付けるのだ。
「彼女も、だいぶ落ち着いてきたようだ。」
最近は、よく、子供たちと共に眠るようになった。
それさえも許されなかった頃は、苛立ちこそ決して我には見せなかったものの、ぐったりとして、それでも目を伏せることが出来ずにいたから。
痩せこけた姿は、見るに堪えなかったが、今は、我が持ち帰った食事も、残さず食べてくれている。
子供たちにも、それらは乳となって、還元され続けることだろう。
「そう……それなら、良かった。」
「また、切開の傷だけ、見せてもらえる?」
「何だ…また、巣穴まで来るのか。」
「済まないね、化膿していないかだけ、心配で心配で。」
「…示しがつかぬ。あの巣穴は、群れ仲間たちさえ、入ることを許していないのだぞ。」
「分かってるけど…君がYonahを連れてきてくれるんなら、それで済むんだからね?」
「無理なことを言うな。それこそ、彼女の身体に障る…」
「この話、何回すれば気が済むんだか。」
「良いか、少しでも妙な真似をすれば、主の腹から上を…」
「はいはい、それも聞き飽きた。どうぞ真っ二つに食い千切って下さい。」
「…でも彼女の命まで、危険に晒すのだけは、本当にごめんなんだ。」
「全員、生きてお腹から出して上げられたら。ずっとそんなことばっかり、考えている。」
「一匹で、寂しがって無いかな…」
「…主は、最善を尽くしたと、我は信じておる。」
「…ありがとう。」
「可哀そうな娘さんの為にも、ほら君の子供たちのお母さんには、元気でいて貰わなくっちゃ。」
「さあ、早く乗せて行ってよ。Fenrir。寒くて、凍えちゃいそうだ。」
「ふん…騎乗はもっと、骨身に染み入ることだろうよ。」
「そうは思わぬか…」
「のう、ダイラス。」




