429. ここ掘れ 7
429. Dig it 7
彼の擦り付けた毛皮に、ざらざらとした、懐かしい感触が走る。
それが、貴方の、Garmの芽生え、ですか。
“……。”
怖い話は、嫌いです。
貴方の旅路は、余りにも追い難いものがあります。
もし、地獄の底で、彼女に会えなかったら。
番狼は、あの世で生を受けることは無かった。
逢いたい、その気持ちを抑えられず、
暗い洞穴から這い出ることも無かった。
希望の川を超えるために、家族を引き連れ、
暴走の限りを尽くすことも無かった。
でも、そうしたら、
貴方は死神の役目を仰せつかることも無くて、
こうして彼女の元へと馳せ参じることも無かった。
貴方の降霊の余韻がこうして続くことも、
こうして、対話をする時間を割いてもらえることも。
“…どうだ、一つ、散歩しながら、話をしようでは無いか。”
“え?ええ……もちろん…”
突如として抑えつけられていた心地よい重荷が外れ、俺は油断していた口元をぐりぐりと突かれる。
それから尾で視界をこれ見よがしに遮られ、目を瞬かせると、貴方は名残惜しそうにそいつを振って、私を誘う。
“ついてこい、主よ。…案ずるな、決して主が息を切らすような歩き方をしない。”
“…わかりました。我が狼…”
Skaの率いる群れの移動に立ち会うことは、これまでに何度もあったが。
同じ歩調で一列に歩くその一匹に加わることは、望んでも出来ないことだった。
ゆったりと俯瞰する中で、そんな気になっていただけ。
月明りにひっそりと見守られながら、ご機嫌な貴方のトロットを、まじまじと背後から、一定の距離を保って眺めていられるのは、眼福と言うほか無い光栄だ。
二匹だけの足音が、次第に重なって、ひとつのリズムで地面に乗せられていると気づくと、忽ちそれはバラバラに離れてしまって、なるほどそれが咎められることは無くても、主客未分の集中は難しい。
それでもまた暫くすると、お尻よりも僅かに掲げられ、小刻みに魅惑的に揺れる尻尾に、視線がすぅっと吸い寄せられている。
この感覚は何だろう。
辿り着いた一番近い体験とは、静かに降り頻る雪片の一つ一つに、視線が誘導される、あの寂静だった。
それが、きっと的外れでないと思えるのは、私自身が、その世界の青に、貴方の楽園を見出していたからに他なりません。
何処へ向かっているかは、この際どうでも良かった。
ただ、この足音と速度感の中でする考え事が、どんなに生産性の無い深みの帰結でも俺は好きだったのだ。
それが喩え、自分自身でも僻むような結論に陥ったとしても、
洞穴で見る夢よりは、幾分か爽やかであったから。
今で言うと、ずっと、喉元で疼く劣等感があって、それについて考えていた。
貴方に対する、慣れた、心地よいそれでは無い。
この悔しさというか、疎外感、失望は何だろう。
多分それは、貴方がGarmの記憶を有している、その一点に尽きるであろうことは、否応なしに理解できた。
それが、予見できなかった訳では決してあるまい。
貴方と地上で再び見えたのは、彼の存在なしには有り得なかったから。
しかし、今の貴方は、少なくとも、私の理想の貴方でいて欲しかったのだと思う。
貴方は、私から抜け出た、あの時のFenrirのままであると思っていた。
…違うのですか?
それが、最も私にとって、筋の通った再会であったのに。
彼に狩られる最中で、勇気と共に姿を消してしまった我が狼は、Siriusの影となって、地上に留まり続けていた。
それが、本質的にGarm大狼の意思と重なることは、何も不思議なことでは無い。
Freyaの元へ、再び姿を見せたことも、死神として彼女を迎えに上がる以上の目的は無かったはずだ。
いや、そういう意味では、彼は最初から最後まで、Garmでは無かった。
見てくれとか、愛情の行方とか、そうしたもの以外の面で、寧ろ終始一貫していたと言っても良い。
でもだから、それ故に、裏切られたような気分にさせられているのだ。
私の目に映る貴方は、少なくとも、私がGarmという大狼を知る前の貴方と、何ら変わらぬ偶像であったから。
きっと、そうに違いない。
しかし、貴方は、覚えていると言った。
彼女に縫い合わせの肉体を授かり、Garmとして生まれたその瞬間を、しっかりと。
それは、私から生まれた、理想の貴方からは含まれ得ない不純物であるとまで言ってしまいたい。
到頭、堪え切れなくなって、私は一歩大きく距離を詰めて、我が狼へと近づいた。
“……っ!?”
噛み付いた尻尾は、存外、口の中で実態を伴い、
口の中で、僅かな慣性がはたらいたのが寧ろ意外だった。
“何の真似だ…?”
それを貴方は、冗談か、仕返しか何かのように思ったことでしょう。
そうした遊びを、私も覚えていたのかと、目が爛々と笑っている。
けど、違うんです。我が狼。
ついていけない。
“どうやら…私には、貴方が宿した身は、世界の行き来によって、姿を変えるように思います。”
“ヘルヘイムで経験した貴方とは、即ちGarmであったのですね…?”
でも、そうすると、
それは悲しい気分になります。
“でも、この世で経験した貴方とは、貴方自身です。”
“やっぱり私は、貴方の生まれ変わりでは、無かったのでしょうか?”
折角、こうして同じ名前を、分かち合えているというのに。
私は、貴方の歩いた獣道を歩くだけで、こうして終ぞ、貴方を奪われてしまったような感覚だけが残っている。
“私は、貴方の生を、こうして客観的に追い続けるので精一杯です。”
“…私は、どうやら貴方では、無いようだ。”
でもGarmが、貴方によって生まれたように、
私も、誰かによって生まれて欲しかった。
それは、父さんや、母さんによって生まれたことよりも、ずっと大事なことです。
私は、私は狼によって生まれたかった。
結局、答えは変わらないのです。
越えるとは、これだけは今や何の意味も成さない。
“私は貴方自身になりたかった。”
“どうしても。”




