429. ここ掘れ 3
429. Dig it 3
長い長い寒中遊泳に、俺は初めて縮んだ自らの姿を夢以外の世界で想像できた。
あいつは、暗闇の中で渡るヴァン川の川幅を、こんな風に絶望していたのだな。
対岸が、遠ざかるような疲労感。
途中で力尽きて、溺れ沈んでしまわないだろうか。
例え、そうならず泳ぎ切れるだけの力を持て余していたとしても。
ヴァン川に潜む怪物が、この足を掴み、底の下へ引き摺り込んでしまわないだろうか。
どうすることも出来なくて、動かなくなる。
そんな気の迷いが。
…懐かしいな。
あいつは、あいつで、一人でヴェズーヴァを見つけ出してやろうと、勝手に闇夜に駆け出して。
底なしの沼に引っかかっておきながら、俺に助けを求める声の一つも上げなかった。
俺の名は、一人で善がって沈むことさえも許してはくれないが。
どこぞの老いぼれみたいに、金槌じゃなくても、そんな疑念が頭を擡げてしまうのだ。
大海を知らず、とは、恐ろしいものだな。
「ああ……。」
だから、此処は海じゃないんだって。
Ámsvartnir湖、陸地に囲まれた、一つの閉じられた湖での水難でしかない。
心配しなくたって、俺が思うほど、毛皮に潮は纏わりつかないし、身体だって、ぷかりと身体に浮かぶ。
俺は、俺が思うより、ちっぽけだ。
だからと言って、縄張りを出ようとも、また広げようとも、俺は思わない。
もう、はっきり言って、懲り懲りだ。
偶の遊説も悪くは無いかと、少しは思ったりもしたが、こんな酷い目に遭わされるなんて聞いていない。
あいつには、これからはしっかり、ご隠居らしい余生を謳歌して貰いたいものだ。
そして俺には、我が狼より受け継いだ、
立派な鉄の森が、住処として残っている。
その中で、次の物語のことなんて気にせず、永劫、群れ仲間の下位として、対岸の営みを見守っていよう。
決めたのだ。
俺はもう、何処にも行かない。
「やっと着いた…」
もしかして、遠ざかっているんじゃないかと思うほど、見た目の距離感を裏切って来る。
そのせいで、陸地を同じだけ闊走するのよりも、遥かに精神に応えるのだった。
貴方は、良いですよね。
水面を歩けるので。こんな航路も、何のそのだったでしょう。
霊体の特権ですか。翼を生やした神様を見ては少しも思いませんでしたが、貴方がそうするのを見ると、いやはや羨ましい限りです。
力なく体をぶるぶると震わせると、秋風が格段に心地よくなっている。
良いぞ、良い調子だ。
そのまま、あいつが泣き喚くほどに、希死念慮に駆られる程に、身の熱を奪う術を身に着けると良い。
尤も、俺達も、もうすぐお暇の予定だ。あまり関係ない話だったかもな。
いつもの癖で、見慣れぬ景色は、全体を見渡すより先に、足元の臭いを丹念に嗅ぎ分けるところから始める。
…この香り、間違いない。
俺が嗅ぎなれた、霜の臭いだ。
草露さえ凍った朝方の芝生を思わせたから、きっとこの静かな惑星の上で目覚めることに、俺は心地よさを覚えたのだと思う。
此処は…俺にとって、安心して揺すって貰える背中だ。
母親の背中。
狼は、決してそんなものを知らないのに。
「……。」
しかしながら、俺は心地よい疲労に揺すられ、Lyngvi島への航路をずっと眠っていて、碌に島内を探索させて貰えなかったことを思い出した。
あの時は、Lyngvi島と見た目は変わらぬ広さを備えた、岩の城聳える無人島であるに過ぎないと思っていたが。
振り返って目にした景色を、忘れず焼き付けることだけに留め、
また会える。そんな叶ったことも無いような約束で、別れて良いような景色だっただろうか。
ごめんなさい。急いでいたから。
私にも、誰かとの約束があった。
嘘じゃない。本当です。信じられないかも知れませんが。
「此処が良かったな…」
決して、大家族では無かったけれど。
俺が、Teusの遊説に付き合うのなら、こんな浮島で過ごすのが良かった。
潮の匂いのしない、涼しげな風が吹くからでも、
俺の登壇を望んで止まない、神々の喜劇が催されないからでもない。
ただ、会いたかった。
此処が、私の想像した、貴方の住むに相応しい楽園の具現化に違いないと納得できたからだ。
此処なら、貴方は幸せに暮らせる。
私は、貴方を偲ぶ日々の中で、そう満足する必要があった。
我が狼が暮らす土地とは、決して狩りの獲物が尽きることなく、雄大な土地を疲れ果てることなく走り回れる、そんな理想郷でなければならない。
でなければ、貴方の最期を償うのに、割に合わない。
必死に、鮮明に、幸せな貴方の死後の世界を思い描いた。
それが、此処なのだ。
そうですよね?
Sirius。我が狼よ。
恥ずかしくて、思わず、俯いてしまう。
「…やっと、会える。」
緊張するなあ。
どうか、最高の一章になりますように。




