426. 下層の座 5
426. Trenchpost 5
「戸惑いこそした…けど、同時に心の底から嬉しかった。」
「彼は、思ったよりも強かった。俺の助けなどなくとも、きっと同じ道を選ぶことが出来ただろう。」
「結局、俺はお人好し。それどころか、彼の獣の道において、とんだ邪魔者だった。彼を誘惑してしまっただけのご悪友と言えば、聞こえも幾分か増しになるだろうか…」
「ねえ、ちょっと、聞いても良い?」
独り言に耳を傾けていれば良いと高を括っておった我は、面倒臭いのは御免だと態度で示すべく、両ひざを地に着け、顔をその隙間に横たえた。
「…なんだ。」
「ゴルトさんって、どうだったの。」
「は…?」
「いや、あの人も、君に対して、人間の世界を、上面だけの美しさだけでも、見せようとしたのかなって。」
「…主の言わんとすることが、汲み取れぬな。」
「何して遊んでたの?ダイラス兄さんと。」
「っ…!?」
余りの寒気に、ぞわりと鬣が逆立った。
フシュルルッルゥゥゥゥッッ…!!
「何の真似だっ…!?」
反射的に、理解することが出来ず、我は遅れて牙を剥く。
「やめろ、その笑みを…!!」
この際、この若狼が目を醒まして、会話を途切れさせてはくれまいか。
そうでなくとも、憤慨に席を立ちたくなるほど、質の悪い冗談に、この男は興じようとしたのだ。
よくもまあ、そのような不快な台詞を吐けたものだ。
そんなもので、我に強烈な再燃を齎せるとでも思ったのか?
それとも、我に、何かの勘違いをさせたいのか?
「ごめん、ごめん。そんな激しく動揺しなくても……。でも、形式上、彼は俺の義兄さんだから。」
「それで、どうだったの?」
「どうも、こうも、あるものかっ…!」
「……。」
我が、若かりしあの老い耄れと、どのような関係であったかだと?
何故、主に、そのようなことを話さねばならぬのだ。
「別に、話したくないなら、話さなくて良い。込み入ったことを、聞くつもりも無い。」
「ただ、俺と同じように、人間の文化を…君の知らない世界をちょっとでも体験させてあげたいと、嬉々として、食べ物を持ち込んだり、神様の奇跡を目の当たりにしたり。そしてそんな彼を見て、内心満更でも無かったのかなって。そう思っただけ。」
「それとも、君の世界を、沢山知りたがっていた?狼の暮らす森の中で、君と一緒に過ごす時間だけが、日に日に増えていくような、人間の群れを寧ろ蔑ろにするような、そんな傾倒に、気付かぬ振りをしていたかとか、そういうのが聞きたかっただけ。」
「……。」
「良いんだ。比較した所で、俺のやってきたことが、正当化される訳でも無いし。」
「繰り返すことの様式美に、酔っていたいとも。まあ、そんなの、初めから反吐が出ると思っていたけど。」
「とにかく、話が逸れたけど…」
「Fenrirが自分で道を選べたのなら、全くそれで良い。」
「俺は、全力で、応援する立場だ。」
「それが、今はどうだ。」
「逆戻りだよ。」
「彼は、狼であることに、再び憑りつかれてしまっている。」
「結局、貴方になれない自分を、これでもかと追い詰めている。」
「それでも、周りからしてみれば、こんなにも誇らしい狼なのに。」
「我が狼でない。ただそれだけで、彼にとっては、狼では無い。」
「こうなると分かっていたら、俺は無理やりにでも、Fenrirのこと、あの森から連れ出せば良かったのかなって。
本気で思っているんだ。」
「君のことを、彼の頭の中から、そして、群れの中から、掻き消してしまえるなら…」
「君を追放、していたかも知れない。」
「……。」
「なるほどな。」
「もし、話す時が来たら、
ちょっとで良いから、その話題に触れて欲しい。」
「きっと、彼の答えは、貴方の中にしかない。」
「君は、君の中に、そんな揺らぎを嘗て抱いていた?」
「群れ仲間たちは、そんな想いさえ払拭してくれる程に、心強いものだったろうね。」
「でも、それ以上に、あの兄弟たちとの関りは、君と、その遺伝子の生き方に濃い影を堕としたはずなんだ。」
「ごめんね、長話が、過ぎたようだよ。」
「俺が、君と話したかったのは、そんなところだ。」
「君が、俺のことを、君の旧友と重ね合わせて貰えなかったようで、残念だよ。」
「俺にも、出来ると思ったんだけどなあ…」
こいつは、両腕に顔を埋め、今にも笑いだしそうな口調で、自問する。
「継ぐって言うのは、途方もない覚悟が、必要だったってこと?」
「誰かになるとは、その全てを丸呑みしてしまうような…」
「確かに俺には、そんな度胸、これっぽっちも無かった。」
「ごめんね…Fenrir…本当にごめん…」
「ああ、ごめんね。話を、続けようよ。」
「何だったっけ、君が聞きたかった話。」
「…あ、あるものか。主と話すことなど…!」
「そうだ、冬至祭だけど…」
主は、思い出したと右手で蟀谷を叩き、意味ありげに微笑むなどする。
「三日後に、開催される予定だ。その開会式にだけ、顔を出そうかなと思っている。」
「暫く、アース神族の知人に、顔を見せていない。そして、今後、見せるつもりも無いのだということを、その場できちんと伝えようと思ってね。」
「この顔見れば、皆も納得してくれるだろう。変な噂を立てられて、余計な穿鑿をされるより、よっぽどましだ。」
「催しに、相応しい話題では無いだろうけれど、俺にとっては、そういう機会にしたいと思っている。」
「勿論、Fenrirも一緒だ。」
……?
「彼と一緒に、神々の世界から、遠く離れることに、決めたんだから。」
「そう言う意味で、俺にとっての人間は、神様の否定。人間で在らねばならないという誇りは、微塵も含まれてはいないけど。」
「けど…神様って言うのは、俺にとって、Fenrirで言うところの狼であった。…そう言えば良いかな。」
「さっさと、脱ぎ捨てたかった。」
「やっと、その時が来る。もう待ちきれない…」
「で、君は?…どうする?」
「……。」
「来てくれると、Fenrirが喜ぶんだけど。」
「…ねえ、聞こえてる?」
「……どうしたの?」
「……Fenrir?」
「はっ…!?」
我は、慌てふためき、半ば転がるようにして、四肢を立てた。
「あ、生憎、拠り所を失ったこの身体も、そう長く持たぬ…」
「き、霧が、濃くなったようだ…」
まるで、その日は天気が悪いから、などと言い訳をするように。
「じゃ、邪魔をしたな。主よ…」
「その若狼には、不用意に出歩くなと伝えておくが良い…」
すぐにでも、この場を去らなくては。
我には、もうこの男の顔を直視することが恐ろしく敵わぬ。
「さ、さらばだ…」
こんな、狂った友の影に、もう用は無い。




