426. 下層の座 4
426. Trenchpost 4
「Fenrirはさ…」
「在奴は…」
我らは、殆ど同時に、そのように口を開いた。
「俺達は、思ったよりも、共通の知り合いが、多いようだから。」
「本来であれば、僕らの間の会話は、もっと弾んでしかるべきだと思わない?」
主の、その親しく交わろうとする態度が、心の底から気に喰わぬ。
そう伝えたつもりであったが、我は人間の言葉を上手く扱えずにいる若狼の気分だ。
「ねえ、君って、Fenrirの守護神なんだろ?」
「そんな役職を仰せつかった覚えは、一度も無い。」
「でも、ピンチの時に、颯爽と現れてくれるような、ヒーローであることは確かだ。」
「それは、あのチビ助が我をあそこまで、連れ出したから、出来たことだ。」
「ちびすけ…良いね!本人が聞いたら、きっと気を悪くする!」
主は、その小粋な響きが気に入ったのか、ぱっと顔を輝かせる。
「ああ、やっぱりじゃあ、Siriusの脚にくっついてたんだ。」
「…どいつもこいつも、我を内に宿したがる。魂が幾つあっても足りぬわ。」
「凄いことだと思うよ。後世に渡って、受け継がれる大狼の伝説だなんて。」
「…もう沢山だ。オ嬢も無事に送り届けた我は、いよいよ、この世を去らせて貰うとしよう。」
「それじゃあ、困るよ。もっと柔軟に、駆け付けて貰わないと。」
我は、この会話が、少しも実のあるものとならぬ予感を鋭敏に感じ取ると、すっくと立ちあがった。
前脚に身を預け、伸びをしてから、どうしてこいつの前で、そんな気を許した態度を取るのかと、心底呆れさせられる。
だから、嫌いなのだ。主のつけ入る様なその性格が。
「そのように言われる筋合いは、毛ほども無い。」
「…あいつ、ちょっと目を離すと、すーぐ死にたがるんだから。分かってるでしょ?」
「だから何故、主にそのようなことを頼まれねばならぬ。」
「そこを何とか、頼むよ。」
「…それが、主の役目であって、何故行けない。」
「だって、今さっき、俺のことなんて、ちっとも信用ならないって言ったばかりじゃないか。」
「我にどう言われようと、関係があるのか。主に十分な膂力があれば、それで済む。」
「…見ての通り、もうヨボヨボなんだよ。分かるだろ…?もうそんなに長くない。」
「ふん、都合の良い奴だ。連れて行って欲しいなどと抜かした次の瞬間には、自らの老いを惜しむか。」
「…うん。」
「俺なら、きっと出来ると、思っていたから。」
「はぁー…」
「神様とは、どうしてそこまで傲慢で在れるのだ。」
「全能だなんて、思ったことなんて無いよ。」
「実際、Freyaを幸せにできる自信なんて、これぽっちも無かった。」
「出来たと肯定する前向きな一歩なら、もっと無い。」
「…それで?」
「え…?」
「何を言いかけた。在奴が、どうしたと?」
「あぁ…」
「何を、聞こうとしたんだっけ。ああ、…そうだ。」
「Fenrirは…」
「幸せだったのかなあって。」
「……。」
思わず、口癖のように、下らぬと零すところであった。
どうして、そうやって、茶化すことも、無下にも出来ぬ話題を持ち掛ける。
「在奴に、直接そう尋ねれば良いのでは無いか?」
「…できる訳ないから。分かるでしょ。」
「我が、主の懺悔に付き合ってくれるとでも?」
「ああ、そうさ。」
「馬鹿なことを…」
「そうしたら、俺も聞いてあげるから。」
……?
「在奴は、何だって?」
「在奴は、これからどうなるって、聞きたかったんじゃないの?」
「……。」
「俺だって、詳しいことは、何も知らないけれど。君と一緒に気を揉むことぐらいなら、してあげる。」
「ちぃっ…」
狼のように、耳が良いとは到底言えぬが。
いやはや余計な口を開いた。
片膝を引き上げると、それの上に顎を乗せて、ぼそぼそと、それは独り言のように呟く。
「あのね、俺が初めてあの洞窟に赴いて、Fenrirに出逢った時の話なんだけど。」
「君は知らない、という体で話すと、彼は酷く、自分が狼であることを気にしていたんだ。」
「俺は、狼だ。悪い、狼だってね…」
「初めは、虐待を受けていたんだと、そう言う風に、教え込まれたんだと思ってた。」
「彼の父親だけじゃなく、周囲の神々からも。だから、追放された時に、きっとそのせいだからと、信じ込んでしまった。」
「言ってしまえば、人間の否定として、狼に成りたがっていた。」
「でも、それだけじゃあ、どうしても説明の付かない違和感が、彼の悲壮感には、ずっと付き纏っていたのを、俺は覚えている。」
「狼で、在らねばならない。」
「絶対に、その存在から外れることを許さない戒律が、彼の中に、強固に。」
「怪物であることは、もっと恐れていた。」
「それ故、俺がFenrirへ送ってあげた言葉は、彼の存在を、もっと酷く苦しめるものだったと、気付かされたんだけれどね。」
「どうにか、そこから救い出してあげたかった。」
「俺は、Fenrirのことを、そのどちらでもない場所へ、引っ張り出してあげようと、息巻いていたんだ。」
「狼でも、怪物でもない、彼が彼自身を愛せるような存在へ。」
「そのどれもが、無駄な、余計なお節介だと、今となっては笑うしかできないけれど。」
「無理強いせずに済んで、今は本当に良かったと思っている。」
「彼には、ちゃんと、偶像がいた。」
「彼には、きちんと、一生の目標とできる存在が、拠り所が。俺に出逢う前にあった。」
「それが、君のことだと気が付いたのは、彼が一命を取り留めてから、もっと後のことだ。」
「話だけは、彼の口から、聞かせて貰っている。」
……。
「君が、Fenrirの糧となったこと。」
「君が、誰かに殺して貰えるのを、ずっと待っていたこと。」
「未だに、あんな結末を、悔やんでいる。」
「ずっと、一緒に暮らせたらと、言っていたよ。」
「根掘り葉掘りという訳には、行かなかったけど。彼の口から出る言葉で、君を賞賛しないものは一つも無かったぐらい。」
「それからだ。Fenrirが、君になりたいと、決意を口にするようになったのは。」
「俺は、狼でありたいと、言うようにもなった。」
「強迫観念から逃げるように、狼を安全圏と捉えていた頃とは、違う眼差しで。」




