326. 下層の座
326. Trenchpost
「なんだ…思ったほど、景色に変わりは無いじゃ無いか。」
かつて、雲の隙間から見ていたものは、埋められて横たわり、
人工的な空の下に忘れ去られてしまうのだろう。
そう思ったけれど。
「良かった。これなら、冬至祭も延期にはならなそうだよ。」
元より、俺の眼に映る景色は、こんなものだったのでは無かっただろうか。
何より、白く染められたそれ自体は、狼達にも、喜ばしいことに違いない。
「と、言いつつ。」
「結局、誰もいなくなっちゃったね…」
それなのに。
みんな、どうして戻って来なくなってしまったんだろう。
Fenrirや、Siriusの身を、今更案じる必要もあるまい。
彼らは、きっと二匹だけの時間を、今度こそ誰にも邪魔されること無く、過ごしているに違い無いから。
しかし、Ska。君までいなくなってしまうと、寂しいよ。
全然、気が付かなかった。
物思いに耽り、部屋の外を延々と眺めていたような気がしていたけれど。
我に返ると、目の前の窓は、白いペンキで隙間なく塗りつぶされ、そこには生気のない自分の物憂げな顔が映るばかりだったのだ。
何を考えていたのか、全く思い出せない。
その癖、時間が飛んだような感覚は無く、座りっぱなしの半身の老体は、鎧の関節のような音を立てて軋むのだ。
牢を手で内側から擦ってみても、見慣れた視界が切り開かれることは無い。
しかし夜の帳が降りる前だと辛うじて分かったのは、その窓が僅かな輝きを放っていたからで、それ故俺は、転がり出るようにして外に飛び出し、こうして周囲を見渡し途方に暮れているのである。
「……。」
轟音に耳を塞がれるような嵐だったと記憶していたけれど、
俺の聴力が、失せてしまった訳では無い。
「どこに、行ったの…?」
自分の声に、脳はとりわけ反応が薄いらしいけれど。
これは自分のものだと確信できる。
「きっと俺のせいだ…」
「雷も、近くに落ちて来ていた気がするし…怖くて、逃げ出しちゃったんだ…」
「頼りなくて、気づいて上げられなくて、本当にごめん。」
「ちゃんとFenrirの場所まで、辿り着いてくれているかな…?」
こんな足だけど。歩くことさえ、最近は危ういけれど。
リシャーダの中だけでも、探し回るとしよう。
ああ、カラスになるのは、嫌いだったから、またあの姿になりたいとは微塵も思わないんだけど。
八肢で自由に駆け巡ることのできた牝馬の姿は、森の中でなくとも、便利だったよなあと思わずにはいられない。
願わくば、大狼の背中に日がな一日跨って、呑気な余生を謳歌したいものだと思う。
それが駄目なら、狼橇を、一台、立派なのを揃えたい。
Fenrirには散々と窘められたけれど。
不自由な老体に鞭を打ってはならない。
元より老後を楽しめるような楽観を持ち合わせてなどいなかったけれど。
そうだとしても、受け入れなくちゃならない。
でも、段々と言うことを聞かなくなる喪失感に慣れず、むしろ恐怖が増すばかりだと言えば、笑われるだろうか。
死ぬのが怖いと、怯える戦士をもう嗤えない。
「歩こう……」
妙に立ち止まらせようと粘る泥濘に、脚を取られないよう、気を付けて。
風に外套の裾を揺らすと、煙が舞い上がって咳き込んでしまうかに思えたが。
しっかりと雨を含んだ地面は、氷雪よりも質悪く、世界を塗り固めてしまおうとする。
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「なんだか、懐かしいな……」
今になって、どうしてそんな台詞を吐く。
街並みそれ自体が、見覚えのあるそれであったと言うのは、訪れた当初から心当たりがあった筈だ。
ただ…そう、活気に溢れた、日当たりの良いそれを見て、同じ言葉を吐かなかったのは。
自分に、そんな暮らしが出来たら良いなと言う、憧れが叶った結果に過ぎないからだ。
活気…、それも変な表現だ。
元よりこの街が、幽霊街であることは、今までと何ら変わらなかったはずなのに。
結局、俺が歩いてきたリシャーダとは、こんなものだったと気づかされる。
此処は、彼女がいない街。
彼女を知らずにいられる敗戦地。
それだけのこと。
あの日も、暗闇の中に、海は濁って荒れ果てていた。
寂しいものだ。
戦後の街を歩くようで、そういう意味では、此処はある種、ミッドガルドで俺が一番見慣れて来たそれに忠実なのかも知れない。
しかし、俺の徘徊は、あの頃に忠実である必要は、全く以て無いのだ。
何処かの家を、訪ねてみるのは、どうだろうか。そんな気持ちにさせられたのは、我ながら気持ちの悪いことだと思った。
幾ら何でも、過去にしがみ付き過ぎと言うか。
当たり前だけど、一軒一軒、扉を叩いてみても、返事なんて一度も無かった。
Freyaは此処にはいない。
冬至祭にも、決して足を運ぶことは無い。
それを信じられずにいると、FenrirやSkaに、憐れまれるような奇行だけはごめんだ。
でも、Skaが何処かに、潜り込んでいるかも知れない。
俺の傍らでは頼りない。かと言って、外に出てしまったことを激しく後悔した彼が、隠れ潜むのに良いと思えそうな場所が、何処かに。
そう言っておきながら、全く以て、思い当たる節は無い。
出店の立ち並ぶ、商店街は、酷い有様だった。
食べ物が乗っていたらしき棚は灰に埋もれ、死人がもし日常的に何かを口にするのであれば、毎日の貪りに相応しいような見た目に変わり果てていた。
「…此処じゃない。」
此処には、腹ぺこの狼は寄り付かない。
「やっぱり、Fenrirたちの元へ、行ってしまったのかな…」
どうしよう。空がまた、暗く淀み始めたけれど、夜なのか、雨雲なのか、見当がつかない。
まだ、街の半分も見て回れてはいないけれど、雨宿りに選べそうな家屋を物色するのも、面倒だ。
もういっそ、リシャーダを離れ、雨風に晒され、塗れてしまおうか。
無事に辿りつけていれば、それで良いのだけれど。
こういう時の胸騒ぎで、取り越し苦労だったことなど、一度も無い。
それなのに、こうやって、街の外れに佇み、無事でいてくれと願うことしか出来ない無力感。
いくら途方に暮れても、慣れるものでは無い。
これが、夢見た日々であったと言うのなら、
俺は狼が死に逝く悲劇を目の当たりにすることも、幾分か慣れなくてはならないのか。なんて。
馬鹿みたいだ。暫く、俺が忘れているだけで、嵐の外の世界を覗き込みながら引き込まれた妄想なんて、そんなものだったのか。
まあ、良いや。
帰ろう。それが、一番だ。
頬杖を付いて、のんびりと、彼らの帰りでも、待つとしよう。
ひょっとすると、Skaが玄関で、お座りして、待っていてくれているかも知れないし。
Teus様、どちらにいらっしゃったんですかって、首を傾げて。
しかし、俺を出迎えてくれたのは、Skaだけでは無かった。
良かった。無事だったんだね。
彼は、ようやく群れ仲間と同じ遊びに興じられたのだ。
宙に浮いて、四肢をだらりと垂らしている。
仔狼のように、口元に咥えられ、眠ってしまっているらしい。
しかし、その運び手は、目元に静かなる怒りを湛えて、俺のことを見降ろしていたのだ。
それは、そうだ。一匹で、外に向かわせて、危険な目に遭わせてしまったのだから。
そのお叱りは、真摯に受けとめるとしよう。
「ああ……待っていたよ。」
まあ、君が最初になるだろうとは、そんな予感はしていた。




