325. 腐食の雨 4
325. Caustic Rain 4
ああ、そんなつもりじゃ。
僕がそうしたのと、そっくり同じ。
全部、吐き出してしまいたい。
Teus様も、耐え切れなくなってしまったんだ。
“僕は、僕は……”
今にも泣きだして、この部屋から逃げ出してしまいたくなる。
この部屋に充満していた重苦しい空気は、いつしかあの日の様に甘ったるい臭いを放ち始めていた。
「ごめんね、こんな話を始めちゃって。」
もっと、もっと僕らの本音は、
愛情に満ちたものであるはずだったのに。
どうして、この物語を否定したがるんだろう。
「自分が蒔いた種は、いつも悲惨な結末にしかならなかった。けれど、今回のそれは、俺達にとって、余りにも大きな火種だったね。」
「そんな出会いになると、思わなかった。」
「俺が、Fenrirに出会いさえしなければ。」
「俺は、君から、君が家族と共に過ごす時間を奪わずに済んだ。」
「君の息子から、大事な右脚を奪わずに済んだ。」
「Yonahだって、あそこまで衰弱することは無かっただろう。」
「そう、思わない?」
「少なくとも、そんな蟠りを、誰かにぶつけたくなったり、したことは無い?」
“……。”
「その本人に、噛みついたり、してはならないよ。」
「それは俺が、受取るべき噛み傷だ。」
“な、何で………”
「ずるいと思うかい?」
「でも俺は、君が本当に心の底から、俺のことを慕ってくれて当然だなんて、思ってないよ。」
“そ、そんな……!”
「君は、忠犬では無い。」
“……?”
「詰っているんじゃない。君が、そのことを否定することが出来ないってだけ。」
「君が、もし主人に忠実であるならば…」
「…ごめん、酷いこと言った。でもそうだろ?」
「でも俺は、長老様の代わりを務めることは出来ないんだ、Ska。」
「君の心を、埋め合わせるのには、余りにも足りない。」
「ゴルトさんのことを重ね合わせようとしてきたのは、俺自身だからね。」
「老いた身体に見合った立ち振る舞いこそ、板についてきたような気がするけれど、それでも俺の臭いを嗅いだ君は、あの方にだけ見せた表情を窺わせてくれない。」
「それでももし、君が一瞬でも、長老様のことを忘れることが出来るような時間を過ごさせることが出来たなら、それは嬉しいことではあるけれど…、それは俺だけのお陰じゃない。」
「これだけ足掻いてっ……!!」
「ようやくと分かったことと言えば。
生とは、どのように死ぬかを彩る為の、お墓であると言うことだけだ。
掘り進めているだけだったんだ。
それでも、そうと分かっていても、掘り続ける。」
「俺達は、苦しむように、筋書きされているのかなあ……!?」
“Teus……様?”
「でも、幸福を演じたがるよりは良い。」
「もっと苦しい。それだけは、いけないことだ。」
「ごめんね。Ska。」
「今の話は、忘れて。それか、俺達の間だけの、愚痴にしようよ。」
「俺も、軽はずみに、吐き出しちゃったの、後悔しているからさ。」
「その癖に、罪悪感を感じていないんだから。凄い、変な気分だよ…」
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僕は、Teus様の枕です。
ずっと、お膝の上に、ちょっと重たいかなってぐらいの大きさの頭を乗せて寛いでいたものですから。
その恩返しができるのは、この上なく贅沢なご褒美ですけれど。
こうして、Teus様が僕の背中に突っ伏して、声を押し殺して泣くのでは、
濡れるのは、全然構いませんけれど。
それは毛皮を剝がれるより辛く、僕も一緒に泣き出してしまいそうです。
どうしたって、貴方の顔を舐めるように、首を捻って動けない。
ああ、きちんと相談しておくんだった。
僕はFenrirさんのように、なりたいんじゃなかったの?
Teus様を泣かせてしまった時に、どうしたら、慰めることができるか。
あの方なら、きっとすぐに、分るのに。
どうにか此処まで、やって来られたのに。
全部、無駄だった、みたいに、言わないでください。
確かに、貴方が失ったものは、自分自身を失うことよりも、意味の大きいものだったかも知れないけれど。
僕は、Teus様に会えて、こんなに嬉しかったのに。
長老様が、こんな老い耄れの傍にいても、つまらない時間を過ごさせる訳には行かないって仰られた時は、とても寂しい気持ちになりましたけれど。
あんなに目を輝かせて、僕の冒険譚を見守ってくれていた。
僕が、活き活きと遊ぶことが。
何よりも幸せであったと。
…ああ、それと同じ。
何となく、わかりました。
Teus様
僕に、静かに、去って欲しいんだ。
でも僕が、幸せに生きる為に。
僕は、僕が狼であることを謳歌できる誰の隣にいたら、良いのですか?
今になって思えば、不思議な話です。
僕、どうして、Teus様のことが、好きなんでしょう。
また、繰り返し、僕の目の前に、あの日が訪れたら、僕はどうするのかな。
僕は、Teus様と仲良く、ヴェズーヴァの広場で、秋の始まりに身を寄せ合う喜びを感じていて。
知らない匂いがするその男が現れたのは、穏やかな日差しが身体を温める、冷たい風の日の午後だった。
そんな書き出しと共に。
もし今、Teus様にだけ面識があって、けれども、ずっと前から会うことが決まっていた誰かが、いらっしゃったとしたら?
僕は、全く同じように、その方と一緒に、また新しいお友達に、逢いに行くでしょうか?
驚きに満ち満ちていた、あの日々を味わいたいと思いつつ、恐れが勝らずとも劣りません。
でもきっと、嫌だと、言うでしょう。
もっと強く、僕を貴方に拘束する、何か、大きな理由が、あるはずだ。
僕が、最期まで貴方から離れたくない。
そう揺らがない理由が。
“……。”
きっと、貴方の優しさを、
僕は、Fenrirさんが、同じように感じていたであろう優しさを、
頬に添えてくれた右手から、嗅いでしまったんだ。
その、新しいお友達も、一匹ぼっちでいるでしょうか。
その狼にも、僕は、何らかの勇気を、もたらすことが、出来るでしょうか。
そんなことも、考えてしまいます。
でも、もう、お腹いっぱいだとも、思います。
その冒険の続きは、きっと子供達に譲るんだろうなあ。
僕みたいに、人間の言葉を理解するのに、不便は覚えるだろうけれど。
そこは、ほら。Fenrirさんが、何とかしてくれると思うから。
「どう、したの…Ska。」
僕は、いつもより少し重たくもたれかかるTeus様を、そっと背中から降ろすと、
右腕を、優しく口奥で掴んで、甘噛みする。
疲れちゃいましたよね。
お疲れさまでした。Teus様。
僕は、まだまだ元気です。
そう思いたいですが。
散る、とは、死ぬことでは無いと思います。
継ぐ、とは、諦めることでもありません。
“ずっと、いさせて下さい。”
“離しませんから。”
“お願いだから、何処にも行かないで。”
「ごめん……本当に、ごめんね、Ska。」
「お願いだ。この話は、忘れて。」
「……ありがとうね、Ska。」
そして最期には。
2代に渡って、
いや、3代、なのかな。
立派に勤め上げた僕のことを。
どうか、なでなでしてください。




