325. 腐食の雨 3
325. Caustic Rain 3
結局、僕が知るところでは無いのでしょう。
今となっては、どうでも良い。そこまでは言いませんけど。
なあなあになって、一向に構わないような謎でした。
だって、あの通路はもう…
あの扉に仕掛けられた停滞の罠は、Siriusさんによって、解呪され。
誰も取り込むことなく、その役目を終え、閉じられてしまっている。
そうでしょう?
だからFenrirさんは、僕らは、今もこうして、
どうにかして、拘束されずにすんだ。
違いますか?
「もうすぐ、ヴェズーヴァに帰れる。…だから、もう少しの辛抱だよ、Ska。」
「ずっと、迷惑ばっか、かけて来たね。」
「君だけじゃなく、君の家族にも、群れ仲間にも…」
「ありがとうって、一匹、一匹に伝えたい。だから、帰ったら、真っ先に、みんなのことを、俺の元に呼び集めてくれないかな?」
もちろんです。みんなで、長老様のことを、お迎えいたしますよ。
「やっと、平和な日々が、取り戻せるんだ。そう思うと…ちょっと緊張すらしてる。」
「此処に来てから、一度も抱いてこなかった感情だけど。俺、帰ることが、楽しみでいるんだと思う。待ちきれないよ、Ska。今更になって。」
「帰りたく無かったんじゃない…そう言うと、嘘になる。」
「でもさ、分かってくれるよね。Skaなら。」
「Freyaを、ヴェズーヴァに返したくなかったんだ。どうしても。」
「でも、今になって考えると、俺は、彼女を、彼女の生まれ故郷で、死なせてあげなかった。なんて、酷い夫なんだろうと。それが、それが……」
“……。”
外の音が、全く以て聞こえないせいでしょうか、僕はTeus様の促す沈黙に、寧ろ気が狂いそうでした。
いつもだったら、少し耳を左右に開いて回転させるだけで、外を流れる風が、取るに足らない小さな動物たちの歩みが鮮明になり、僕が気を逸らすのにちょうど良かったのに。
今日は、不気味なまでに静かです。
僕の耳に、灰濘が詰まっているからでしょうか。
Siriusさんのご厚意を、嫌がってしまった罰が当たってしまったみたいです。
それとも、この部屋は本当にTeus様の仰る通り、
外の世界から隔絶された、時がゆっくりと流れる別世界であるのでしょうか。
「Ska…彼女は先に、帰ったんだよね?」
「俺が、動ける範囲で、そこら中を探して回ったけど。彼女と一緒に過ごしたことを思い出させる形見は、何も見つからなかった。」
「…俺は、俺自身の手で、彼女と思えるものを抱えて、連れて戻るようなことは、出来ないらしい。」
「一生、後悔するんだろうね。」
「それぐらい疼くのが、ちょうど良いと思うんだけど。」
「分かるかい?Ska。」
「どれだけ、時間の流れに抗って、永遠に思えるぐらいまで、薄く引き伸ばしても。」
「戻ることは、許されない。喩え神様であろうと。やり直すとか、そんなことが許されてはならないんだ。そのはずなんだよ。少なくとも、神様のすることじゃない。」
「だから、元の世界には、少なくとも俺が望んだような日々は、二度と帰って来ることは無いんだ…」
「でも俺の、残りの一生なんて、全部君たちの為にあると思って欲しい。」
「全部…全部一滴残らず、与える側でありたいんだ。彼女みたいに。」
「絶対に、飢えさせなんてしないから。病気だって、きっと治してあげられる。」
「名前だって、あの方に代わって、一匹残らず、付けてあげるから。」
「俺の血は、まだ半分残っている。」
「その一滴も、俺はヴァン神族の血を引いてなんかいないけれど。」
「ちゃんと、最期まで継いで見せる。せめてそうありたい。そんな我が儘に固執していたい。」
「でないと…簡単に、終わらせてしまいそうだよ。」
“……。”
止めなくちゃ。
僕は、そう固く決心した。
いつ、その時がやって来るか、分からないけれど。
僕なら、止められる、そんな自信も無いけど。
でも、僕がTeus様を看取るようなことが、あってはならない。
もう、Teus様の手を噛むことだって、恐れないから。
「そんな顔しないでよ、Ska。」
「そう思っているってだけ。軽はずみに行動に移したりなんて、出来ないから。俺は、意気地なしだからね。実際、あんなことがあったのに、こうしてのうのうと、生き永らえている。悔しいけれど、そうなんだ。」
「だけど…だけど……。」
「何て、言ったら良いのかな。」
「こんな俺のこと、本当は、どう思ってるんだろうね。」
「Fenrirから、君の言葉の多くを、沢山聞かせて貰っていたけれど。それも、ある種、彼の翻訳というフィルターを通しての言葉。それは、君の言葉じゃない。」
「全部、素晴らしい言葉だった。君が、どれだけ優しい狼で、長老様や、群れ仲間のこと、俺のことを愛してくれているか。それが言葉の端々から滲み出ていて。」
「あいつが、嘘言っているんじゃないかって思うぐらいだった。」
“そ、そんなこと…!!”
「分かってる。ごめんね。本気で言ってるんじゃない。ただ、俺が捻くれているだけだから。」
「かと言って、俺は、君が表現しようとしていること、これでも…そうだね。半分くらいは、分かって上げられていると思っているんだけど。」
「そうだからと言って、お互い、腹の中に溜め込んでいたいものを、誰の力も借りずに今まで吐き出したことって、無かっただろ?」
“……??”
「そういう時間が、一日の何処かに、」
「俺達の意識の外で為されるようなやり取りの時間が、潜み隠れていても良いのかと、ふと思ったんだ。」
「君は、メッセンジャーでは、無かったね?」
“何のこと…でしょうか?”
「兄弟暗号のこと。」
“あ……”
「失声症って病気がある。」
「Skaは、Skaの頭の中で、人間の言葉を、紡ぐことはできるのかな?考えてみたことが無いから、何とも言えないけれど。聞いた言葉が分るのだから、それを表現も出来るって考えるのは、間違っているんだろうね。それらは密接に関わっているけれど、別々の機能だ。」
そうですね。僕は、Teus様が難しい言葉を使いさえしなければ、
Fenrirさんのように、難しい考えを話さなければ、頭の中に、人間の言葉は浮かびます。
でも、それと同じものを、僕は作れない。
Fenrirさんに、図書館でTeus様にお伝えするようにと命じられた暗号は、一文字も分りませんでした。
本を傾ける、という、単純な操作に分解して貰えたから、皆で力を合わせて、信号を送ることが出来た。
ええ。記号は綴ることが出来ても。書き記すことは出来ません。
「そう…良かった。」
「ごめんね、自分で、言っておきながら。」
「ある意味、そうと踏んでの虚勢だったからさ。」
「ねえ、俺がいなくても、大丈夫だよね?」
「本音を言うとね。君にだけは、ずっと、一緒に居て欲しい。」
「一人ぼっちは、嫌なんだ…」
「とても、耐えられ無い。」
どうして…?
どうして、そんなことを、仰るのですか?
何故、一人ぼっちになってしまうと、思っておられるのですか。
僕が、みんなが、Fenrirさんが、
いるんじゃないですか?
「…それが、俺の本当に感じている怯えだ。」
「Skaは、俺にはそんな憎しみを、見せてくれないの?」




