325. 腐食の雨 2
325. Caustic Rain 2
「やっと、嵐も収まったみたいだよ。良かったね、Ska……」
「外、どんな感じなんだろう。もう、窓が真っ白になっちゃって、全然見えないんだよね。」
「多分、夜明け前だと思うから。明るくなったら、外の様子、一緒に見に行こうよ。」
是非、そうしましょう。
僕も、昨日一匹で見て来た世界を、まだ信じられていません。
本当に、Lyngvi島は、灰の雨に枯らし尽くされてしまったのでしょうか。
ショックを受けるに違いありません。絶望に打ちひしがれるTeus様を見るのは、身を切られるよりも辛いですが。
「Fenrirも、明日には顔見せてくれると嬉しいんだけど。」
そうですね。Fenrirさんがやって来られるのを待つばかりでは、もどかしいですものね。
僕も心配です。何処に行かれてしまったのか、結局消息は掴めませんでしたし。
Siriusさんとは、行動を別にしていらっしゃるらしいのも、気がかりです。
もしあれが、夢では無かったとしたらの話ですけど。
「ベッドの上、おいでよ。」
Teus様は、脇に除けた枕の上を、ぽふぽふと叩く。
「ちょっと久しぶりに、お話したいな。」
“……?”
「どうしたの?Ska。」
自分が勝手に作ってしまった、耐え難い間を埋められず、右手を凝視し、逡巡する。
「怖い?」
「大丈夫、お酒なんて飲んでないから…」
いえ、そんなこと、思っていません。
…急に、どうしたんだろうなって。
ただ、そうですね。
Teus様が、ヴァナヘイムにいらしたばかりの頃を思い出しますね。
僕はゆったりと尾を揺らして、ベッドの縁を鼻で擦ると、ぴょんと小さく身を浮かせ、Teus様の隣に空いた温みへ飛び乗ったのでした。
思ったよりも、大きな音を立てて軋む四肢が、きっと今まで支えていた身体の軽さを物語っているのでしょう。
「静かだね……」
夏に合わせて拵えられた寝室は、底冷えする夜明け前を耐え忍ぶ為に、僕らが身を寄せ合って心地よいぐらいの空間でした。
Teus様に、おでこのツボを優しくマッサージされ、僕はさっきまで爆睡をかましていたはずなのに、瞼がとろんと重たいです。
腿の上に顎を枕にさせて貰うの、いつ以来でしょう。それぐらい、久しぶりなひと時です。
まだ、Fenrirさんが、あの森に一匹で住んでいて、Teus様がヴァナヘイムとの落ち着かない二面生活を楽しんでいらっしゃった頃。
懐かしいなあ、そんなに前になるでしょうか。
僕とTeus様で、ベッドの支配率が、全然違うのも、相変わらず。
Teus様は、2本足だ立つので、ついつい自分よりも大きいのだと思ってしまうのですが。
こうして頭側の背凭れに座っていらっしゃるTeus様の両足は、ベッドの半分も届かない。
僕が腹ばいに座るだけで、ちょっと窮屈に感じさせてしまうでしょうか。
Freyaさんだと、きっとそんなことは無いのでしょうね。
「この部屋だけ、外の世界から、隔離されているみたい。そう思わない?」
“……。”
ちょっと、わかる気がします。
外に出てみたら、そこは僕らが暮らしていたヴェズーヴァの離れなのかも。そんな気がするってことですよね。
Teus様を追いかけて忍び込んだお屋敷から、抜け出してみれば、そこが冬の雪原にぽつんと取り残されたヴェズーヴァだったときの、あの不思議な感覚と同じ。
でもそれがもし見慣れた景色なら、ようやく僕らは、夢から醒めることができそうですよね。
そして現実世界に戻って来た次の瞬間には、この島であった出来事も、Siriusさんのことも、思い出せなくなってしまうんだ。
「この部屋だけ、真っ暗な、夜空の中に、ぽつんと浮いているような。」
…その喩えは、ちょっと分からないです。
「此処だけ、時間が止まっているような感じだ。」
時間が…止まる?
「ゆっくり、本当にゆっくり、時間が流れているって言っても、良いかもね。それだけは、思っていたのと、ちょっと違うのかも。」
聞き覚えがあるなあ。
なんだっけ、それ。
「琥珀の中にいるのとは、ちょっと違うんだなって思った。意識もあって、こうして身動きも取れる…」
“…Teus…様?”
“あ……”
そして僕は、その言葉を、Fenrirさんが小難しい推論を捲し立てる中に鏤められていたのを思い出してしまいます。
“そうだ…確か…”
“待機。”
“待機だ…”
うわ、と思わず眉間に皺が寄った。
なんで、今になって、そんなこと思い出しちゃうんだろう。
“Suspend、だっけ…”
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“ごめんなさい、Fenrirさん。”
“僕は、貴方の言っていることの、正直、半分も理解できていないかもです…”
“この箱が、Lyngvi島とVesuvaを結び付けることが出来るのは、Teus様のお力によるものであるって言うのは、分かりました。
その、力の特徴が、Teus様しか扱えないもので。
Teus様は、その一端を、箱の内側の壁に、刻み込んだんですよね。“
“でもそれって…”
“それって、Fenrirさんにとって、
僕たちにとって、どんな問題があるのでしょうか?“
“それが分かって、Fenrirさんが、怯えている理由が、僕にはぴんと来ていません。“
そう、Fenrirさんは、酷く怯えていた。
まるで、Teus様がそれを悪用すると決めつけて。
“それって、Teus様がVesuvaから離れる為に、自らが転送の路を拓いたってだけじゃないんですか?
それのお陰で、僕らは、Fenrirさん以外は、ですけど。殆ど自由に往来が出来て、いつでもTeus様に元気な群れの姿を見せることが出来る。
全部、Teus様が望んで、提供したお力の結果、というだけではありませんか?“
Teus様が、嘗てその手で自由に操ることの出来た力の残骸を、正しく狼達の為に使っているなら。
何故、俺達に、そのように説明をしない。
それが出来ない。
その理由は?
Fenrirさんは、嫌な含み言葉で、僕を惑わします。
“それは…”
“それは、直に分かるだろうさ。”




