324. 浸食された渓谷 2
324. Eroded Canyon 2
“主の器量は、目を見張るものがあるな。”
“いえ、とんでもないです…”
“我でさえ手を焼いたと言うに。一体どうやって、あの数の群れ仲間たちをまとめ上げたのだ?”
“単に、狼としての、長の資質を備えているだけでは、決して成し得ぬ偉業である。先天の才を備えているに違いない。”
“えーっと、それと言うのは…僕が、人間の言葉を、多少は理解できるってことでしょうか?”
“ふうむ。それも、大きな一助となっているだろう。きっと、人間の知恵に、何度も導かれてきたのでは無いのかね?”
“はい、仰る通りです。本当に…”
“沢山の人間に、お世話になりました。”
まるで焚火を囲むように、僕は思わず目をうっとりと細めたでしょう。
幸せな会話は、それだけで安心してしまうんです。
“だが、本当に信じられる相手であるかどうかは、最後まで自らの意志で決めねばなるまい。それこそ、主のような、群れ率いの地位に長く居座って来たものにとって、最も重要な決断であると知っていよう。”
“ええ、そう、ですね…”
“主の、一個人の軽率な行動が、群れ全体の命取りの論争となる。”
“……。Teus様は…”
“おっと、すまなかった。主の主人の悪口を言うつもりは無かった。”
“どうか、見過ごし給え。年を取ると、口数が増えてしまっていかんな。主も気を付けることだ。”
“まあ、主が人間の言葉を口走ることはあるまいよ。その点は、安心するが良い。ふっふっふ……”
“……。”
疑心暗鬼になることは、悪いことです。
群れ仲間にとって、生き残るために必要なことだから。それも勿論、あります。
僕らは互いに、群れと別の群れの間での闘争を避けなくてはならない。
自分たちの縄張りに脚を踏み入れる狼に対し、手放しで歓迎の意を示す訳には行かないから。
信じあうことは、当然のことだとは思いません。
遊んだ仲間に向けて、なら。それは自然な愛情。
僕だって、そう思いたかった。
でも、実際はそうじゃない。
群れを去る仲間たちも、沢山見てきました。
群れに入ることを、拒む狼だって。
僕らは何度も、分断されかけて来た。
その度に、Teus様も、Fenrirさんも、何度も命を落としそうになって。
僕らは、大事な人を失いましたね。
でもTeus様はFenrirさんのことを、FenrirさんはTeus様のことを、口ではいがみ合いながらも、心の底では信じていたから、なんとか、神様の戒めからも、乗り越えて来られました。
それって、‘奇跡’、だったのでしょうか。
それとも、お二方にとっては、当たり前だったこと?
たとえTeus様の運が、尽きてしまったとしても。
もし、当たり前では、無かったのだとしたら?
まだ刺々しい言葉を躊躇わなかった頃のFenrirさんが、疑いそうな前提だと、思いませんか?
僕は今、きっとおんなじ気持ちでいるんです。
…僕も、もしかしたら、誰かに疑われるような、存在だったのでしょうかって。
群れの仲間たちから。
Fenrirさんから。
Teus様からさえも。
僕が思うように。
鬱陶しく思われているのでしょうか。
ねえ、Siriusさん。
“…どうした、主よ。”
“何か、言いたげでは無いか。”
”我であれば…そうだな、先輩狼として、主の相談に乗ってやっても良い。“
”滅多にない機会だとは思わぬか?“
“我を、あの図体ばかり一丁前な青二才と一緒にするでない。”
“歳ばかりは、主らの何百倍も喰らってきたのだからな。はっはっはっ……”
Siriusさんは、僕のことを、本気で慰めようとしているのでしょうか。
それとも、笑顔の裏では、僕のことを、位の低い狼、ぐらいに思っているのでしょうか。
或いは、狼とさえ認めず、単に犬かのようにしか捉えていないんじゃないか。
懐かしいなあ。昔のFenrirさんには、よくお前は犬だって、小馬鹿にされたものです。
今だから、笑える話ですけど。
良いんです。それだったら、まだ良い。
負け犬、そう思われているのなら、話は違います。
根拠も無いのに、僕の中で、劣等感が膨らむのは、そのせいだ。
“……。”
全部、吐き出してしまいたい。
そう、煽られているのだとしても。
“貴方が現れてから、皆、変わってしまいました。”
“皆、落ち着かない日々を送っています。”
どうにか、ヴェズーヴァでの暮らしが、板についてきた矢先のことだったから。
人間の街に住み着くのは、落ち着かないって。
Teus様がもたらす安定した食料は、魅力的に映るでしょうが。
正直、春先になって、狩りにある程度の希望が見出せるようになれば、皆、散り散りになってしまうんだろうなって。
それでも、僕の直接の家族は、僕と一緒に暮らすでしょう。
僕は変わらず、Teus様に仕え続けますから。
ですが、それももう、今までの暮らしとは程遠いものです。
貴方と同じ名前を長老様から授かったあの仔は、
もう二度と、兄弟たちと一緒の速さで走れない。
それを分かっているから。
僕らは歌えない。
まるで喉を掻き切られたように、
声が薄暮の空へと登って行かないんだ。
“皆…?”
“それは違かろう。”
“変わったのは、主、一匹では無いのかね?”
“そんな禅問答がしたいんじゃありません!”
“では、どうして欲しいのかね。”
“我に、恋の指南でも請うと言うのか?”
“っ……!!”
やっぱり、吐き出すんじゃなかった。
口論になっても、勝てる訳が無い。
本物の喧嘩だったら、もっと話にならない。
でも、言わなくちゃ。
言わされている。そう分かっていても。
“Yonahが、一番変わった。”
“……。”
彼女が。
彼女が一番、変わり果ててしまった。
彼女は、何処か、冷たい表情を、頬の毛皮に湛えたまま。
僕が隣に座っても、鼻先で顔に触れることもしなくなった。
逃げたりはしない。
激しい拒絶も無ければ、表面的な求愛も無い。
落ち込んだ様子を、僕に見せないような、そんな器用な振る舞いが出来るほど、彼女は強くない。
貴方も、見たんでしょう?
彼女の毛皮。
帰って来た時、余りの悍ましさに、吐きました。
でも、それを気にする素振りを見せなかったのが、もう耐えられ無いぐらいにぞっとした。
それで良い、と、あれは受け入れているからなのでしょうか。
それとも、気が付いていないのですか?自らの毛皮を引き抜いていながら。
“誰が、誰が彼女にあんなことを?”
“Siriusさん。答えてください。”
“僕から、Yonahを奪って。”
“幸せにしないどころか。“
“その上…彼女に、”
“Yonahに、何をしたんですか?”




