323. 4C2 2
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目を瞑るのが、恐ろしいと思ったことは無かった。
灰泥が張り付いて、二度と開かなくなるんじゃ無いかと思ったから。
それに、どういう訳か、嫌に右の瞼が弾いた筈の水滴が染みて痛いんです。
こんな灰に塗れた水、飲んではならないことは明白だったんだ。
“げぇ…口の中…苦い…”
何の気なしに、つい舐めてしまった鼻が、酷い味になっていました。
でも、川の水で口を漱ぐなんて、以ての外で。どうすることも出来なくって。
こんな惨めな気持ちで歩くことになるとは思わなかったです。
ガララッ…ゴロゴロゴロッ…!!
“いぃっ……っ”
雷まで鳴りだすなんて、聞いていません。
ああ、Teus様の懐に飛び込んで頭を埋めたいよう。
駄目だ、こんな情けない弱音を吐くようじゃ。
でも、後戻りをするなら、今しかないような気がする…。
何事も無かったように、とは行きませんが。
それでも、帰れなくなって、誰かを心配させるよりは、ずっとましだ。
吹雪の中を突っ切って歩く時に、こんな不安は、感じませんでした。
どんなに冷たく吹き付ける風も弾いてくれて、払っても、払っても、覆い被さるから、もう面倒臭くて放っておいても、全然ものともしない僕の毛皮が。
今は却って、足を引っ張ってしまっています。
Teus様のように、毛皮を纏わない身体であれば、幾らか身軽でいられたでしょうか。
羨んでも、仕方ありませんね。
でも味方してくれるはずの自然が、突然牙を剥いたような。そんな裏切りにショックを覚えていたんです。
“こんなはずじゃなかった…。”
ちょっとした、偵察をするだけのつもりだったんです。
Teus様の心情を察した、そういう任務。
最初こそ、自分の意志で密かに形を成した計画に、悪天候を物ともせずに進む自分に酔って、胸が高鳴っていたのですが。
僕の尻尾は、今や仔狼のそれのように可愛らしい細さで萎れています、多分。
決して、Fenrirさんを疑っている訳ではありません。
ただ、何をしているのか、それを覗きたかっただけ。
何か、こっそりしていらっしゃるんじゃないか。
そんな疑念を拭い去りたかっただけ。
きっと、Siriusさんと一緒に、和やかなご歓談をされているのですよね?
Teus様のことなんか忘れて、貴方が憧れた狼と、心行くまで。
警戒心を解き、毛皮を寄せ合っている姿を初めて見せつけられた時、そんな気はしていました。
ああ、僕らじゃ、駄目だったんだな、って。
別にそれで良いと、Teus様なら笑顔で迷いなく仰ることでしょうね。
もし見つかったら、大激怒されるでしょうか。
そんな緊張感を含めて、僕は正直、勇気を遊びと履き違えていたようでした。
いらっしゃると分かれば、それで良いんです。
盗み聞きたいんじゃない。
本来であれば、元よりFenrirさんが居を構えていらした洞穴へ向かうべきだった。
そして、そうしたいなら、出来る限り中央の闘技場を経由して、安全な道筋を辿った方が良い。
でもそれだと、簡単にFenrirさんの耳には、捉えられてしまう。
何の悪気も無く、お邪魔するには、とても下心があり過ぎました。
今向かっているのは、滝つぼのある山の麓。
それは寧ろ、一番、向かってはならない場所であるように思います。
ですが、僕は、吸い寄せられるように、あそこへ。
硫黄の臭い立ち込める、地獄の口へ。
あの湧き出し口は、僕の幻覚だったのでしょうか。
それだけでも、確かめたい。
そうしたら、あれは何だったのか、それを僕の方から、尋ねることが出来ると思うからです。
そう思ったのに。
僕の目星は、とんだ的外れ。
ガサガサッ……
“……っ!?”
朦朧とする意識から、はっと我に返る。
咄嗟に、俯せになり、じっと息を潜めて耳をぐりぐりと周囲に向けた。
乱れ打つ雨の音、灰川の濁った唸り、その中に、今、微かに動物の足音が混ざった。
ぺちゃっ…
今のは、僕の前脚が泥濘に浸かった音です。
そこから、突発的に走り出した。
ダダダダッ、ダツ…
どうだ…?釣られてくるか…?
“……。”
獲物の足音に隠れて動くのは、捕食者の常套手段。
でも今のは、僕自身のそれに合わせて、だ。
気のせいかな?感覚が高ぶって、尖り過ぎているのかも。
でも、もしそうだとしたら、自分と同じやり口で在りながら、想像以上に接近されている。
自然と尻尾に力が籠るのが分かった。
いつの間に…?
“もう、場所まで、特定されている…?”
そんな、馬鹿な。
あの方の縄張りだったらまだしも。
こんな悪天候の中で、僕の接近に、こんなに早く気が付くでしょうか?
僕だって、何も考えずに動いていた訳じゃないのに。
敢えて獣道からも外れ、周囲の雑草から灰泥を纏わりつかせながら、丁寧に進路を選んできた。
…意地でも、Fenrirさんに詰問されたくなかったから。
轟轟と耳の奥で蠢く雑音の中から、もう一度、聞こえたはずの足音を探ろうと試みる。
“筋は、悪くない。”
“……っ!?”
心臓が、縮み上がる思いでした。
すぐ上の方から、雨の中でも、はっきりと聞こえる。
灰に塗れた樹林の中で、ひと際灰色の鈍い輝きを放つ、四本の四肢。
いつの間に、とか、そういう次元じゃない。
“だが、彼女の言う通り、休みがちだ。移動距離も短いうえ…一つの場所に、留まり続ける癖が多いようだな。”
先回りされていた。
僕が、この場所で走るのを止めるのを、分かっていたんだ。
完璧な立ち回りをしてなお、見破られる。
それで満足な、Fenrirさんの気持ちが、僕にはまだ理解できません。
完璧な憧れとは、そういうものなのでしょうか。
“我の背中に乗るか、それを良しとしないのなら、自分の足で付いて来い。”
“在奴からは、それだけの走力は有しておると聞いた。”
“……。”
僕の最初の対談は、どうしてか、願ってない相手から始まるようです。




