322. 息詰まる 2
322. Breath in Sulfur 2
“……う…ん…?”
目を醒ますと、聞きなれた穏やかな潺と、
心地よく揺すられる毛皮の背中があった。
「む、目を醒ましたようだな。」
「えっ…?あっ、本当だっ!!」
そして、僕の背中を撫でるこの右手は、Teus様だ。
「Skaっ?大丈夫?怪我とか無い…?」
勿論、大丈夫ですよ。
いつの間にか。ちょっと、眠ってしまっていたみたいです。
「あるものか。着水の衝撃で、気を失ってしまっただけだろう。」
「もう!ショックで身体がバラバラになるかと思った!」
「まあ…生身で突っ込んでたら、即死だったかもな。」
「最っ悪…!ほんとにあのまま落っこちるかと思った!!」
「そんな訳が無いだろう。冗談が通じないな。」
「ふん、バック・ウォッシュに掴まって、慌てておった奴の言う事は違うな。」
「…あ、あれは、思ったよりも、水深が深かったせいで…!」
Fenrirさんは、激しく動揺した様子でそう弁明する。
また水を飲み込む喉の音が聞こえた。
「何それ、バック…?」
「滝壺のように、川底が穴状に窪んでいる場所では、上流から流れ込んで来た水が一度下方へ落ち込み、それが再び上方へ湧き上がるのだが、その後に再び上流に向かって戻って来る流れが発生する。この逆流する流れのことをバック・ウォッシュと呼ぶのだ。」
「え…それって、めちゃめちゃ危ない…」
「一度掴まると、簡単には、浮上しては潜らされる輪廻から抜け出すことは容易では無い。常人では息が続くまい。」
「ですが、こうして彼らは無事に…」
「我の後ろを何食わぬ顔で着いて来おって。気づかぬとでも思ったか。」
「っ……」
「川底の下方から這って進み、泡立つ水面を超えるしか、流路の抜け道は無い。覚えておくことだ。」
「……はい。我が、狼…」
「いやはや、この青二才はそんな経験も持ち合わせていなかったようだな。主は何度でも、我を驚かせてくれる。」
「……申し訳、ございません。」
またしてもSiriusさんに心地よく窘められ、Fenrirさんの耳はすっかりしょげ返ってしまう。
「…しかし随分、肝も冷えたのでは無いのかね?」
Siriusさんが、喉の奥でクックと悪い声で笑うのが、
本当にふざけたFenrirさんにそっくりで、背中にくっついた左耳から響いて来るようだ。
「ご所望の通り、素晴らしい納涼だったろう?」
「Fenrirっ…このばかっ…!!」
「やめろっ、耳に触るなっ!!」
また、ちょっと甲板が揺れて、植え付けられた恐怖が毛皮をぞわりと這う。
「めちゃくちゃ楽しかった!!楽しかったけど…!!けど、もう二度とやりたくないっ!!」
「おいっ!!何度言ったら分かる!…また振り落とされたいのかっ!!」
“あはは……”
Teus様が楽しかったなら、それだけでもう良かったです。
もう一回やりたくないのは、僕も全く、同じ意見ですね。
…ただ、あの景色。
最後にちょっと、見逃してしまいました。
もう一度、よく見てみたい。その心残りはあります。
…何だったんだろう、あれ。
硫黄の臭いのする、別世界。
Teus様も、ご覧になったのでしょうか。
怖くて、あんまり頑張って思い出そうとすると、
夢の中で、あの口に、食べられてしまいそうです。
“あの、此処は……?”
おずおずと頭をTeus様の膝から擡げると、まだずぶ濡れの身体がずっしりと重たい。
どっと眠気と疲労が押し寄せて来た。
一端、立ち上がって、ぶるぶるっと毛皮を震わせたいのですが。
「主らを乗せて、下流を、流れておる。」
答えたのは、Siriusさんですね。
ぼんやりと声の方向を見上げると、Fenrirさんと並んで泳いでいるのかと思いきや、僕を気遣うように、そっと鼻先で突かれるのでびっくりした。
“……すごい。”
どうやってるんでしょう。
水面を歩けてしまう辺り、やっぱりSiriusさんは、ただの狼では無さそうです。
「そのまま主らを、塒まで送ってくれるそうだ。」
“…ありがとうございます。”
「リシャーダの外れまでだ。そこからは、自分で歩けよ。」
“はい…今度は僕が、Teus様を乗せて帰りますね。”
「そんなこと、しなくて良い。こいつをあんまり、老い耄れ扱いしてやるな。」
“で、ですが…”
「お前が、半身の神具を取り戻したことには納得いかないが、身の回りの生活は、一人で十分に熟せるだろう。」
「大丈夫だよSka。一緒に帰ろうね。気遣ってくれてありがとう。」
“……。”
頬の毛皮を、なでなでとされて、僕はうっとり眼を細めて、そのまま首を預けてしまう。
“あ……”
空を仰ぐと、木漏れ日の光は感じられず、既に傾いているみたいでした。
そんなに、眠っちゃっていたんだ。
黄昏の色こそ、僕の眼には、ぼんやりとしか燃えないけれど。
夕陽の光はだいぶ陰ったようです。
疲労と対照的に、気分は何だかそわそわしてしまう。
群れが周りにいたなら、きっと急かされるように、始めていた。
“Fenrirさんたちは、ご一緒されないんですか?”
「確かに、洞穴で過ごすのは、当分無理そうではあるが。日当たりの良い浜辺で朝日に目を焼かれるのは、ごめんだからな。麓の適当な幹の根で、眠ることにする。」
“そうですか…”
“噴火の心配は、無さそうでしょうか?”
「どうだろうな。思ったほど、河川の濁りは無い。取り越し苦労だったのかも知れん。ただ、警戒するに越したことは無い。」
“そう、ですよね…”
僕は、言い出せなかった。
本当は、Fenrirさんは、何を確認したかったのでしょうか?
良い仔な僕は、気づかないふりをしてしまう。
僕らを、連れて来ることに、
意味があった。Fenrirさんのことだから。
そう考えたくなる。
“Fenrirさん、やっぱり、お家まで、送って行って欲しいかもです。”
“僕…疲れちゃった。”
「ふん、仕方ないな…」
ごめんなさい。
瞼が、重くって。
こんなに、群れのことを忘れて、仔狼みたいに遊んだの、久しぶり。
忘れません。
こんな、唯の夢みたいな話。
そんな語り洩らした、挿入話。




