321. 薄氷の上
321. On thin ice
「あぁ…はぁっ、はぁっ…はぁ゛っ…」
「あ゛あ゛~無理、ほんとむりだ…」
僕のすぐ傍で、苦悶の喘ぎ声が絶えない。
朝から地獄絵図だ。
「あっっっついっ……」
「あついぞ…」
そうですね。最近では見ない暑さです。
Teus様も、珍しく今日は、しんどそうにしてらっしゃいますね。
「っるさいな…でっかい舌垂らしてはぁはぁと…近寄らないでくれる…?」
「んだと…?俺の方こそ、ぶつくさとほざく小言が聞くに堪えなかった…」
「……。」
「……。」
「暑いって言ってんだろっ!!」
「暑いと言っているのが分からぬかぁっ!!」
“うわっ…!?”
同時に叫ぶので、僕とSiriusさんは、思わず耳を立てて二方の方を凝視する。
「あ゛ーっ!もうほんと、見てるだけで暑苦しいわっ!この毛玉っ!!」
「だっ…誰が毛玉だっ!!失礼なっ!!全狼に対する冒涜であるぞっ!!」
“あちゃー…始まっちゃた…”
「毛玉だよっ!何を一丁前に冬毛纏った毛玉!」
「こっちだって、好きでこんな格好しているのでは無いのだ!」
「あーはいはい。可哀そうに。じゃあ人に当たるのは止めましょーねー」
「こいつっ…今に見ていろっ!もう少しすれば、この立場も逆転するのだからなっ!」
「いいもん。その時はSkaに抱き着くから。」
“えっ?あっ、はい…それはいつでも喜んで…”
「ぐう゛ーっ…減らず口だけは、老いても衰えぬなぁっ!!」
「あーっ、うるさいなあっ!耳元でキャンキャンとっ!!」
“のう、主よ…”
“は、はい……何でしょう?”
“…Siriusさん。”
一瞬、Fenrirさんって、呼びそうになっちゃった。
僕も暑くて、頭がぼーっとしちゃってるのかな。
“彼らは随分と、仲が良いのだな。”
Siriusさんは世にも珍しそうに目を丸くして、まるでそれが信じ難い光景だとでも言うように、そして興味深そうに呟く。
“ええ、まあ…”
“いつも、このようであるのか…?”
“……そうですね。”
“大体いつも、こんな感じです。”
「Skaは黙っててっ!!」
「我が狼は黙っていて下さいっ!!」
“ひぇっ……申し訳ございませ……”
“……。”
次の日の早朝、よりもだいぶ前。まだ海辺の波も見えないぐらいの時間に、北の方角、裸山の麓の方面から、緊急の召集を要請する遠吠えがあった。
Fenrirさんからだった、と思う。二匹がお帰りになった巣穴のある場所からで、間違いない。
何事かと思ってTeus様を叩き起こし、暗峠を真っ直ぐに突っ切って馳せ参じてみれば。
Siriusさんと二匹きりでいるのが居た堪れないから、早く来て欲しかったんですって。
もう、心配しちゃった僕がバカでした。
そんなことで、と言うつもりは無いですけれど。そのせいで、朝早くから睡眠を妨げられたことで、ご機嫌斜めなTeus様と、Fenrirさんのムードはちょっぴりピりついていました。
そこに訪れた、とんでもなく照りつける夏の日和。
季節が逆戻りしたと言うよりは、秋の空模様に、そのまま夏が覆いかぶさって来たような感じです。
毛玉?と称された僕らのように、体毛を纏わないTeus様ですら、ご自慢のマントを脱ぎ捨て、右袖を捲るほど。
僕も、けっこう頻繁に舌を垂らさないとしんどいし、道中急いで峠を越えて来たので、もう一回川でお水が飲みたいくらい喉が渇いていますが。
…こんな風に、取り乱すほどでは無いです。
日陰に入ってじっとお昼寝していれば、別に。
そんな呑気な提案ができるのは、僕が普通の狼だからの話なのは分かっています。
前に仰っていましたっけ、身体が大きい分、Fenrirさんの毛皮は陽の光を浴びやすいんだって。
大樹の影に肖って、僕が、根っこの間に収まって涼んでいるのに対し、
FenrirさんとTeus様は、葉っぱの庇が作る影のぎりぎりからはみ出しながら、恨めしそうに陽の光を睨んでいる。
あ、Teus様もこっちに来ませんかって言ったんですけど。
Fenrirさんの隣が良いみたいですね。
Siriusさんも、大樹の裏に座り込み、僕の隣で頭を伏せているような体勢で、完全には日陰に入れていない様子でしたけれど。
日光に当てられた尻尾が、ちょっと透き通って見えて、涼しそうに揺らいでいます。
その身体、僕が思うよりも、特別みたいです。
“…それにしても、どうしてこんな急に、ぶり返しちゃたんでしょうね?“
だいぶ涼し気な風が吹くようになって、昨日はFenrirさんも楽そうにしていらっしゃったのに。
「夏の最期の抵抗か、忌々しい…惜別の意など、これっぽっちも在りはしないのだぞ。」
Fenrirさんは、有りっ丈の憎しみを込めて、そうぼやく。
実際この熱波は、初めて僕とTeus様、それからFreyaさんがLyngvi島に到着した時の気候を思い出します。そういう意味では、一気に盛りまで引き戻されてしまった感じですよね。
“これが、えーっと、何だっけ。いじょーきしょー?ってやつですか…?”
「うむ、だが今回は気候変動というよりは…この岩山の活動が関連しているやも知れぬ。」
“と、仰いますと…?”
「全く注意を払う暇が無かったが、麓の洞穴を巣穴に選んだこの雄山…どうやら休火山では無かったらしい。」
かざん…
この山、火山なんですか?
「何の前触れも無く、脈動が活発になった…そう捉えて良いでしょうか?我が狼。」
「そうとは言っておらぬ。我がこの土地に口寄せされたのは、つい先日のことよ。手掛かりは、ちりばめられておったやも知れぬ。」
「断定の為にはもう少し、その手掛かりが必要です。噴火の前兆と捉えることの出来る異変として、他にどういったものがあるでしょうか。」
「主も、まだまだ狼としての経験が浅いの。」
「申し訳ございません、我が狼…」
「謝ることでは無い、群れの継承が途絶えたことを、悔やんでおるだけよ。」
「……。」
「お、俺からしてみれば、Fenrirだって、森全域を縄張りとする、海千山千の大狼だよ…?」
Teus様も流石に見かねたのか、先までの激昂を忘れてフォローに回る。
「ふむ、いたずらに過ごすだけの長生きも、案外してみるものだとは思わぬか、主よ。」
「…俺も年だけは喰っている、と言いたいところですがね。貴方と同じぐらい。」
Siriusさんは咳払いをすると、唐突に口調を厳めしく飾って喋り出した。
「火山噴火の前には、マグマや高温高圧の水蒸気が地表付近まで上昇するため、前兆現象あるいは前駆現象と呼ばれる、普段は見られない様々な現象が起きる。たとえば、地震の群発、火山性微動の発生、地殻変動、噴気温度の上昇、噴煙や火山ガスの増加などがあげられるだろう…」
“あーっ…”
えっと、人間の言葉、よくわからないです。
ほんと、そっくりですね。急にFenrirさんみたいに、僕らのことを置き去りにしないでください。
「そうした結果、川の水が濁ったり、泥水が噴き出したり。
或いは微動で地面が割れ、硫黄が燃えたり、溶けた硫黄が沼を形成することがある。
新たな噴気で岩肌の色が変わることも忘れるな。
そして、噴気や火口の温度が、急激に上昇する。今のようにな。
夜に煙が赤く見えたり、遠く彼方で、ハンマーを叩くような、ずしんと音が聞こえることも前兆の一つだ。」
“は、はぁ……”
えっと、人間の言葉、よくわからないです。
「…昨夜、微かではあったが、地響きのような揺れがあったのは事実だ。」
“え、そうだったんですか?”
Fenrirさんは、僕らを呼び寄せたのは安否確認も兼ねていたのだと打ち明ける。
「岩山だけ、洞穴の中だけの現象だったのだろうよ。そう信じたいだけ、かも知れないが…」
“全然気が付かなかった……”
「まあ、お前達が無事でよかったし、我が狼が仰って下さったような追加の情報と言うのは、あれから今のところない。」
「火口付近を源とする、この急激な気温上昇を除けば、だがな…」
「洞穴の奥底で休みたいのは山々だが、いつ前触れも無く地震を伴って崩れ落ちたり、溶岩の噴出に巻き込まれるか分からん。あそこは暫く入れないな。」
「俺は再び、貴重な根城を失ってしまったことになる。」
“ああ、そんな…”
それで、僕らは灼熱の外に追い出されてしまっている、と。
やっと、全てが繋がりました。
「しかし、僥倖と捉えることも出来るのであるぞ。」
「噴火後は、気温が大幅に下がることが知られておる。」
そ、そうなんですか…?
「大規模な火山噴火は、二酸化硫黄ガスを上層大気に注入し、それが水と反応して硫 酸水滴の雲を形成する。 これらの雲は太陽光を宇宙に反射し、太陽エネルギーが地球表面に到達するのを 妨げることによって、地球の表面を下層大気とともに冷やすからだ。」
「はぇー全然わかんないや…」
“つまるところ、冬がやって来るってことで、合ってますか?”
「ふむ、良い線を行っているぞ、若狼よ。」
「しかし短いスパンで言えば、例年より少し寒い程度だ。」
“そっか、それでも、Fenrirさんにとっては、嬉しいお知らせですね!”
「だと良いがな…」
「そう言えば…」
ちょっと和んだかに見えた雰囲気の中で、一人だけ、浮かない表情のご様子です。
…どうか、されましたか、Teus様?
「昔、君と一緒に旅に出た時、とんでもない大変動に見舞われたことがあったよね。あれも、その前兆を感じ取ることなんて、全くできなかった…」
「うむ、そんなこともあったな。あの時は、お前を安全な場所へ連れて行くのに、必死だった…」
「でもそれ、結局火山活動とは関係なかったよね?」
「ああ…あれは、この世界が必然的に伴う地殻変動の一つに過ぎなかった。」
「つまりお前は…」
「今回も、大蛇の仕業だと解釈する余地があるか問いたい、と。」
「…ちょっと海辺、見に行っても良い?」
「魚の死骸が、大量に座礁しているようなら、ひょっとすると…」
「……。」
「どう思われますか、我が狼。」
「どう思うも何も、在奴の全長を鑑みれば、この世界でその長身が取り巻いておらぬ土地を探す方が難しかろう。」
「それは、仰る通りで…」
「もし、我々の前に再び姿を現すようなことがあるとすれば、その規模を憂えるのは尤もだが…結局のところ、彼が何故動くのか、その原動力に目を向けなければ、理解することは叶わぬ。」
「で、ではやはり、彼女が…?」
「オ嬢は本意では無いにしろ我に暇を出された。お留守番をさせてしまっている我が身を切られるより辛い思いをしていると察せよ。」
「も、申し訳ございません…我が狼…」
「それに、仮に本当に在奴が暴れ出したのだとして、どうすることも出来まいよ。」
「加勢も妨害の類も…今の我には、な。」
「……。」
「まあ、我に答えを求めても埒が明かぬ。其奴の言うように、自分で確かめに参るのが良いのではないか。」
「ええ…そうですね。」
「さあ、皆で納涼と洒落込もうでは無いか。」
Siriusさんは影のような身を起こし、前脚を伸ばして全身をストレッチする。
「そうと決まれば、寧ろ暑い方が良かろうて。」
「…何だ、御存知だったのです?」
Fenrirさんは、同じ仕草が憚られるのか、ゆるゆると首を振って、淑やかな視線を落とす。
「おお、いつ、誘ってくれるのかと、我は待ち遠しかったぞ。」
“今から、出かけられるのですか?”
「ああ…」
「ちょっとした、水浴びにな。」




