320. 露滴療法 3
320. Dewdrop Cure 3
“Fenrirさん、壊れちゃった…”
「まあ、あれだけ揉みくちゃにされたらね…」
さっきから、嬉し涙とは到底言い難い感涙に、頬の毛皮を濡らし
呻き声のようなものを喉の奥から漏らすのが聞こえるだけだ。
泣き止んでくれただけ、まだ良しとしよう。
此方もあんな風に叫ばれては身が持たない。
“きゅうぅぅっ……ぐぅぅん…”
“ぴぃぃっ…ふゅっ……ふひぃ、はぁっ……はっ、はっっ”
それが上位の狼に対する恐怖とか、怯えから来る威嚇の鳴き声でないらしいことが、
Skaの戸惑いの表情から察せられる。
彼がずっと希って来た触れ合いが、何の前触れも無く、心の準備も無しに、大挙して押し寄せて来たのだから、平常心を保てという方が無理な話だ。
Siriusが、Fenrirにずっとしてやりたかったことと、
俺が聞いたことのある、Fenrirが、ずっとして貰いたかったことが、
こうも完全に一致して、こんな形で実現させられてしまったのだと思うと、
何だか見ていて嬉しいを通り越して、可哀そうですらある。
止めに入るとか、それが出来る段階に無いし。
Siriusが鼻先でFenrirの毛皮を突き、遊べと絡むたびに、
初めこそ、畏れ多いですと拒絶の反応を示していたが、
それでも良いでは無いかとしつこく要求すると、Fenrirは諦めたように目を瞑って、そのちょっかいを受け入れて転がるのである。
「見ていらっしゃいますか…Gortさん?」
椅子があった方が、老体には楽で良い。
机のコップを手に取り、口元で湯気の臭いを嗅ぎ、ゆっくりと口に運ぶ。
これが、忠実なる継承であるのだろうか。
それは、俺やあの方が、何気なく見つめて来た、群れ仲間たちのやりとりであったのだけれど。
巨体がごろりと転がり、絡み合って縺れ合い、時折動物的俊敏さで拒絶し合う様は、中々に壮観だ。
寝返りを打つだけで、日陰がぐわんと頭上を通過するし、がばりと立ち上がるだけで、小さな地震が机上のコップを揺らす。
見ていて全然飽きないのは、いつもそうだけど、釘付けにさせられているのは、きっと身の危険を感じているからだけでは無いはずだ。
大狼らの輪郭が暗闇に朧気となると、濃淡さえも曖昧となって、いよいよどちらがどちらか分からない。
もう立ち振る舞い、態度というか、尻尾の高さ、毛先の膨らみで判断するより他無い。
それが容易であるだけ、彼らの間で序列がはっきりしているのが面白かった。
同一たる存在、そう願っておきながら、やはりFenrirにとっては、憧れに止めておきたかったのだと気づかされる。
彼方から強引に理解を求められ、それさえも許されぬ今、しかし漸く、本来の落ち着きを取り戻し始めているように見えた。
それだけが、救い。
「さあ、そろそろ主の塒へ戻るとしようかのう。」
「は、はい…」
「古巣が未だ健在であったなら、言うことも無かったが…自然にいつまでもその形を保てと言う方が無理な話よの。」
「え、ええ…」
「尤も、もう少し大事に使ってくれても、良かったのだがのう。」
「返す言葉も…ございません…」
「我の亡骸を掘り起こすのに、どれだけ苦労させられたと思っておる。」
「う、うぅ……」
心身共に萎れてしまった様子のFenrirに、かける言葉も無い。
「お、お前たちはどうする…」
「一緒に行くかってこと?遠慮しておくよ。Skaだけよろしくして良い?」
“あっ、僕はTeus様と一緒が良いです。”
「そうだな、こいつの介護を頼む。」
“はい、お任せください。”
「明日は、いつ頃こっちに来る?」
「それは、我が狼のお気持ち次第というか…」
「おおい、主よ、先に赴いておるぞ。」
「え、ええ…すぐに、追い付きます。どうぞお先に!」
「な、何故巣穴の居場所をご存じなのだ…」
ぼそりと呟くも、それが狼の耳に届かぬはずが無い。
「その仔狼に聞くが良い。」
“えっ…ぼ、僕は何も……!”
「その者の装備奪還、ご苦労だったな。」
“……。”
「追跡はお済みだったのですね……。」
“すみません…本当に、Fenrirさんだと思ったんです…”
「無理も無いさ。」
「申し訳ございません、我が狼!すぐに参りますので…!!」
「……。」
黒く塗り固められた狼の影は、暫く耳をぴんと立て、じっと彼方を見つめていたが、
正しい方角に向ったことを確認したのか、やがて此方へと向き直って俺の方を見降ろした。
その表情、一切読み取ることが出来ない。
「Teusよ。お、俺はこの土地が嫌いだ…お前には悪いが。」
「暑くて敵わないし、潮の臭いが充満して、鼻が潰れる。毛皮もゴワゴワだ。」
「それに、それに…神様に、あんなに酷い目に遭わされた。」
「俺が、それだけのことをされるのに値することは、理解しているつもりだ。」
「そ、そんなことは…」
「良い、お前に否定して欲しいのでは無い。」
「未だに、身体のあちこちがズキズキ痛む。」
「我が狼、貴方の噛み傷とはまるで違う。じくじくと、毛皮を這い廻るように…」
「息を吸おうと、胸を膨らませるだけで、あちこちでそいつらが裂けるのを感じる程だ。」
「冬至祭の最中、もし再びあの場へ呼び出されるようなことがあれば、想像するだけで恐ろしい。」
「今度こそ、それは俺の物語の終わりを意味するのだろうな。」
「でも…でも、」
「俺は神様に、心から感謝している。」
「此処に来て、本当に良かったと思っている。」
「また来年、誘ってくれるよう、お願いして貰えないだろうか。」
「お前が、そう言った立場に無いことは分かっているが。」
「Teus、やはり俺は狼だ。」
「けれど俺は、お前の思う狼だったか?」
「あの方の群れ仲間に加わりたい。結局、その願いが初めから変わることは無かったのだ。」
「…夢の続きを、また見させてくれるのなら。俺は。」




