320. 露滴療法
320. Dewdrop Cure
「あ、あの…」
「うわあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁ……」
「おかえり、なさい。」
「で、いいのかな…?」
Fenrirに代わって自信なさげに呟いた言葉は、慟哭に掻き消され、自分の耳にすら届かない。
それでも良いのだ、大狼の耳には、十分届く。
そう思ったのだが、彼は涼しげな表情で微笑むだけだ。
よほど、隣で大号泣する狼を眺めるのが楽しくて堪らないらしい。
「ねえ、Fenrir……」
「あう゛ぅぅっ…う゛ぇぇっ……うぇっ……うあ゛あ゛ぁぁ……!!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛っっ……そん゛なぁ゛っ……うぅっ……」
「聞いちゃいないか。」
子供に例えると、両目から零れる涙を手で拭いながら歩くよう、そう表現するより他無かった。
悲鳴にも似た吠え声が聞こえたので、大喜びで帰って来るかなと思いきや、
ぐしゃぐしゃに顔面を泣き散らして、嗚咽以外の口を聞こうともしない。
まるで転んで大怪我をしたか、友達にいじめられたかでもして、お家に帰る子供のように、
前が見えなくなる程の涙を流してへたり込み。
「うえ゛え゛ぇ゛ぇ゛ぇぇぇ……」
それからずっと、この有様である。
幾らでも泣いて良いとは、思っている。
でも、嬉し泣きで良いんだよね?不安になってくるぐらいだ。
全く泣き止まないどころか、喉が枯れて、苦しそうに息を漏らすので、ますます心配になって来る。
これだけFenrirが狂ったように哭いたのは、この世の果てで、再び邂逅を果たした、あの時以来であると、はっきり記憶している。
Sirius。
俺は貴方のことを、そう呼ぼうと思います。
君は、Fenrirにとって、それだけの意味を持つ狼だから。
あの時と違うのは、
Siriusは、Fenrirを泣き止ませるような一撃を、
ただ、仰け反って泣き喚く大狼の首元に、
自分の頭をぽんと横たえるような。
彼が一番欲しがるであろう狼の触れ合いを、Siriusが与えなかったことだろうか。
そう、今日の彼は、ちょっとよそよそしい。
そのように見えるだけかも知れないし、意地悪という程でも無いが、普段からは想像もつかぬ狼狽ぶりを愉しんでいるようにも見える。
そう思うのは俺だけだろうか。
俺は、狼の表情に詳しい訳では無いけれど。
でも、ご機嫌なのは、確かだった。
「あ、あのー…」
「何をしに、来られたのですか。」
聞きたいことは、山ほどある。
それは、Fenrirの方が、遥かにそうだろうが。
まずは、この状況を説明して貰えると、幾らか心が落ち着くと思う。
貴方の本職、それを考えれば。
目の前に此処まで実態を以て具現化したことの意味を、考えずにはいられなかったのだ。
「それは…我が聞きたいところだがのう。」
恐る恐る口を開いたのが、Fenrirでは無く、俺であることが、気に喰わなかったらどうしよう。
何しに来たって、明らかに歓迎の言葉じゃないし。
そんな不安が頭を過ったが、返事はいたって朗らかなものだった。
余りにも、感情を潰されてしまった隣の大狼とは対照的である。
「存外に、この世への顕現を強く表してしまったということになるか?」
「まあ、暇を貰ったのだと思うことにしておる。」
「彼女も、一人で泣きたいときもあろう。」
「我は、この土地の一角に呼び寄せられた、一介の亡霊に過ぎぬ。」
「催しさえ滞りなく終えてしまわれば、次第に毛先も綻び、冬の始まりと共に。」
「…音も無く消え失せるであろうよ。」
……。
「それまで、のんびり過ごさせて貰うとするかのう…!」
大木のように太い前脚を伸ばすと、彼はたっぷりと頬を伸ばして挟み込んだ。
驚くことに、二匹して、けっこうな毛皮を蓄えたものである。
季節は思いの外、進んだらしい。
「尤も、主らを騙し通せるくらいには、十全で、透き通らぬ身体であると思わぬか?」
「仮初の姿と呼ぶには、余りにも、この世への実感が湧く。」
人間であれば、それは手の平を握っては開くような確かめ方となるだろうか。
代わりに彼は、鼻先を地面へ押し当て、その先を舌でぺろりと舐めるような仕草に代える。
「死神として捉えた獲物は、それは大層な大物であった、ということも出来るやも知れん。」
「それも契約の内…」
「我が主との結びつき、強くなり過ぎてしまったらしい。」
Siriusは悪びれることなく、そんなことを宣って、眼下に転がしていた肉塊に手を付ける。
やっぱり、さっきの言い方、印象悪かったようだ。
「安心せよ、我は、主らへ何ら干渉の術を持たぬ。何もできやしないと誓おう。」
ここら辺が、Fenrirと違って老獪なところ。
…どうして、気が付かなかったんだろう。
割とショックを受けたのは、確かではある。
疑いもせず、本心を打ち明けるようなヘマをしでかしたのだから。
Skaに至っては、もう落ち込んでしまって、俯き一言も口を聞こうとしない。
「ああ、それにしても見ものであったぞ!其方らが、我の名演技を疑いもしなかったのは…!!」
そう、こうやって、相手の心を容易く見透かすところ…
いいや、それはFenrirも、持ち合わせた眼識だったか。
破顔なんて、滅多にしてはくれないのだけれど。
「このまま、主の役、奪い取ってやりたい程にな…!!」




