313. 勇者のくせに 3
313. What did I do to deserve this 3
今も尚、Torの右腕からは、肉の焼ける臭いを漂わせながら、濁った煙を上げ続けている。
「飼いならせぬと分かった途端に、これだ。」
「短期決戦を所望する…」
彼は、両腕を蟹股に開くと、左腕を右手首を添えるようにして握りしめ、高々とそれを掲げた。
尚も、ミニョルミルを地へ叩きつけようと言うのだ。
“無論、ソノツモリデアルトモッッ!!”
それを、易々と通す訳には行かない。
大狼は一言も息を漏らすこと無く、Torの眼前にまで迫る。
浮遊を伴うタメ攻撃で無ければ、その範囲は既に目測が着いていた。
だが、今や彼は第2形態と言って良い。
予備動作なしの威力に、どれだけの差が生まれるかを見届けるのは、この期に及んで余りにも驕っていた。
爪先で切り付ける動作では、もう遅いと分かっていた。
この前脚は、所詮、人間で言うところの手ではない。
反射的に一番最初に出るのは、鼻先であるのだ。
そして我が狼は、この肝心な所で、躊躇なさる。
慈悲が故では、きっと無い。
僅かに開きかけた口を、もう一度結んでしまわれたのだ。
ばくりと、丸呑みにしてしまうことも出来ただろうが。
あの異物を胃袋に収めたくないのは至極納得の行く理由だ。
でも、その立派な牙で、串刺しにしてやれたのでは?
それとも、何か私の考えの及ばぬ逡巡が…?
鼻先を、釣鐘を叩く撞木のようにして、がら空きの鳩尾へと叩き込むのが見えた。
「ヴっ……!?」
吐き出されるような、声にならぬ苦悶の呻きが響いたかと思うと、
その、直後。
「貰ったっ…!!」
“ナッ…!?”
気絶しなかったのは、鋼の肉体のお陰だろうか。
Torは一瞬怯んだように見えたが、そのまま弾き飛ばされる程、与しやすい相手ではない。
「そっちから来るのを、待っていたんだっ…!!」
一度は、その右ストレートをぶっ放してやった鼻先に、四肢で張り付いたのだ。
“コイツッ…!!”
しがみついた獲物を振り落とそうと、大狼は焦って首を振り回すも、Torは毛皮に引っ付いた雑草のように離れない。
地面に自らの鼻諸とも、叩きつけてやれ。
だが、遅かった。
「喰らえっ!!」
ジュゥゥゥゥッッ……
“ッ……”
“アギャアアアアアアッッッッーーーーーー!?”
焼き鏝が押し当てられるような音と共に、狼の叫び声が木霊する。
びくりとさせられた。俺の耳にこびり付いた、あの地獄界の番狼が、銀の銃弾を撃ち込まれた時の声に、そっくりだったから。
白銀に輝いた毛皮が、臭い煙を上げて、腐って行くのが見える。
それは、氷塊に覆われた海原へ沈んでいく太陽と形容して尚、奇を衒っていると取られない。
ゆっくりと、しかし時間と言う抗い難い力に押され、抵抗なく、ずっしりと、喰いこんでいく。
“ヴゥゥゥッ!!ヴゥゥゥッァァアアアアアアッッッ!!”
“ハナ゛セッ…ハナ゛セェェェッーーーー!!”
前脚で鼻先を擦る様な愛嬌ある仕草で、剥がし落とせるものではない。
大狼はあまりの激痛に仰け反り、腹を見せて転がり、のた打った。
どちらの肉に深く喰いこんだか、分からないほどだったが、
ようやく振りほどくと、ミニョルミルを握りしめたままのTorを観客席へと弾き飛ばす。
バッガァァーーーン!!
岩盤が砕ける音と共に土煙が上がる様は、彼が頑丈な肉体を与えられた主人公だからこその演出だろう。
「どうだっ…痛み分けくらいには…なっただろう。」
“グルルルルゥゥゥゥッ……!!”
“ヨグモッ…ヨグモォォォッーーーーッッッッ!!”
大狼は完全に冷静さを欠き、今や彼を我が狼と呼ぶことに、躊躇いを覚える程に怒り猛っていた。
鼻先から根元に向かって伸びた傷から流れる色は、やはり無色だ。
しかし、その傷口から覗かせる顔は、やはり見覚えがある。
“許サンゾ、主ダケハ……主ダケハァァァッ!!”
化けの皮、などと揶揄するつもりは無い。それは、羊の皮などでも無いことを、私はもう知っている。
だが、本質というか、彼がこの世界へ君臨する術は一つで、代わりが無いのだと思った。
掛け替えのない、絆の縫い合わせ。
その縫い手が、今は、彼女であるだけ。
“ア゛ァッ……ア゛ァッ……ヴゥゥ…”
“イ゛ィッ…ソンナ゛ッ……”
“ヤメッ、ロッ…コレグライデッ……”
「っ…!?」
仰け反った頭を下げると、大狼は静かに眼を開く。
“済マナイナ、我ノセイデ……”
“……アリガトウ、オ嬢ヨ。”
再生、している。
完全にだ。
上がっていた煙の臭いが変わったのが分かった。
焼け付く毛皮のそれから、ほっとするような真冬の吐息に。
毛皮に縫合の痕さえ、認められない。
それが、あいつが惚れ込んだオ嬢と、彼女の流す涙の奇跡との違いだった。
「…やはり、その程度の掠り傷、ものともしないか。」
「相手が悪かったな…」
沸血する感情とは裏腹に、びゅうびゅうと背後から吹き荒ぶ冷気には、今や氷の礫が混じって視界に打ち付けている。
“フウゥゥーーー……ヴウゥゥーーッ…”
“アウゥォォォォォォオォーーーーーーーッッッッ!!”
びりびり、と空気が震えた。
聞き惚れたかったのに、今は何処か、怒鳴り声のような耳の塞ぎたさがある。
”チョットデモ、情ヲカケテヤッタ我が、間違デアッタ!”
“ソノ手首諸トモ、切リ落トシテクレルワァァァァアアアアアアアアアッーーー!!”
「……っ!?」
よろよろと立ち上がるTorに対し、
狼は突風に乗せられた氷上の粉雪のようは速さで、眼前へと詰め寄る。
ガキンッ…
首筋に向けて真っすぐに突き立てられた爪は、辛うじて短い柄によって弾かれるも、
その衝撃は、あっさりとTorから、防御の姿勢を奪い取った。
明後日の方向へ向かうミニョルミルに引っ張られる形で、周囲に聳える塔の足元へ吹き飛ばされる。
タンッ、と
それよりも素早く、距離を詰める左後ろ脚。
“グルルルルゥゥゥゥッ!!”
迎撃の姿勢さえも、取らせない。
「くっ……!!」
犬歯の致命こそ、免れるも、
到頭、捕まえた。
「しまっ…」
舌先で藻掻くようなやり取りが、見られたのはほんの一瞬で、
今やTorの胴体は、大狼の閉じられかけた口元で、牙の鉄格子から覗かせる程度でしかない。
“セイゼイ、腹ノ中デ泣キ喚クガ良イッ…”
されるが儘の肉塊が、噛みやすい位置へ誘ってやろうと、口の中で放られ、踊る。
臼歯へと送り込まれてしまえば、それから一噛みで終わる。
ゴリッ…
鈍い咀嚼音が奥歯の辺りで響くのが微かに聞こえた。




