312. 奇跡さえ超えて君の元へ 3
312. Meteor 3
目を瞑れば、望郷に駆られそうな寒風が、闘技場を噴き荒ぶ。
その冷気が、俺の鼻をくすぐる理由は、分かっている。
霜の匂いだ。
英雄から、色ある視界を奪った、あの濃霧と同じ。
あいつが外套をきつく肩に巻き付けそうな冷たさだ。
神具諸とも、取り上げてしまったことを、今更になって後悔している。
「出方ヲ窺オウナドトハ、甚ダ勇敢サニ欠ケルトハ思ワンカネ?」
「ソレトモ何ダ…?」
「躊躇シタイ事情デモ、アルト言ウノカ?」
Torは、口でこそ豪胆な兵士の態度を崩さずにいたものの、
武器を構える素振りは、露ほども見せず、
大狼をじっと睨みつけるだけだ。
しかし、刻一刻と、その身体から、熱は奪われていく。
染み出していく生。
「主ヨ。ソレハマルデ、救援ヲ待ツマデ耐エヨウトスル、戦線ノ兵士ダ。」
「我ヲ、狩レヌ。ソウ確信シテイルヨウニ見受ケラレルガ。」
「コノ仲裁ヲ止メニ入ッテクレル、父ナル存在ノ一声ヲ待ッテオル。違ウカ?」
「……。」
そうだとして、貴方はどうするおつもりなのです?
私たちを、神々の意志から遠ざけて下さる。
それ以上を、この哀れな勇者に、望むのは残酷です。
御存知なのでしょう…?
「ソレトモ、主ヨ。慈悲深イ神様ハ、最後マデ。」
「狼ヲ殺スコトニ、躊躇イヲ覚エルノカ?」
そこまで、半ば挑発的に、
そして自身が表現したように、独壇的な立ち振る舞いを愉しんでいたように思えた彼の表情から、
笑みが消えた。
「アノ老イ耄レト同ジヨウニッッ!?」
わ、我が狼……
俺は心の中で呟く。
その時、父さんや、母さんと同じような存在になっていることに、初めて気づかされる。
怖かった。貴方が。
その眼を血涙が溢れんばかりに見開き、
毛皮を逆立て、牙を剥き。
誰かの命を、ある種、はっきりとした目的を以て奪うのだ。
その姿を、貴方は、
全て喰らい尽くした私の記憶に、見せようとはしなかった。
人間の否定としての狼を追い続けた私から、その姿を晦まし続けて来た。
それは、何故ですか?
私を、肯定してくれるため?
心優しい狼になれる。そう信じ続けて来た私を。
ずっと、そう信じてきました。
それを今の貴方に問うことが、堪らなく恐ろしい。
「我ハ…、我ハァッ…!!」
「アノ場デ、Yonahノ元ヘ連レテ行ッテクレタラ良カッタノニ…」
「ドレダケソウ、嘆イタコトカ…!!」
「主ノセイデ、我ハ今モコウシテ、地ノ底ニ縛リ付ケラレタママ…」
「主モマタ、アノ男ト同ジヨウニ優シク、愚カデ、ソシテ人好シデアリ…」
「我ニ、人間ヲ殺サセル者デアルカッ…!?」
俺のせいだ。
皆、みんな、俺のせいで。
Teusの時だって、そうだった。
俺さえいなければ、
怒りに口調を荒げ、周囲の空気を弾けさせ、噛みつくように、在りもしない本性を剥き出しにする。
そんなことをせずに、済んだはずなのに。
怖いよ、
Teus。
怖いです。
我が、狼…。
どうして、みんな。
直に、俺まで…
「答エロッ、主ヨッ!!」
「主ニ全力デブツケルコト、履キ違エテイルト承知ダ。」
「ダガ抑エキレヌコノ感情が、受ケ止メキレヨウカ…??」
「今ニモ、我ノ腹ノ内カラ、食イ破ッテ来ソウナノダッ!!」
「モウ抑エキレヌゾ。主ヨ。」
「狼ハ、狙ッタ獲物ヲ、疲レ果テルマデ、執拗ニ追イカケマワス。」
「ソレハ、知ッテイヨウナ?」
「主ハ、逃レラレンヨ。」
「死神カラ。」
「我ガ望ンダ死ヲ、迎エサセテヤルコトカラ。」
「フゥー……ウ、ウウゥッ」
「フフッ……」
「故ニ主ヨ、武器ヲ構エヨ。」
「…低ク。ソウ、低クダ。」
「我ハ主ニ、一滴ノ慈悲モ与エヌゾ。」
「貴様ノヨウナ下種ガ、オ嬢ノ王国ニ至ル事ナド、断ジテ許サヌ。」
「今度ハ、我ノ方カラダ。」
「一匹残ラズ…、我ガ裁イテヤロウゾ。」
「安ラカナル、藁ノ上デノ死ナド、貴様ラニ迎エル資格ナド無イ。」
「Hellheimカラ、追放シテクレルワッ!!」
“フシュルルルルルゥゥゥ……!!”
「っ……」
「……。」
「殺 シテヤル。」
そこで、人間の言葉は途絶えてしまった。
「どうやら…真に、止むを得んようだ。」
「異存は無いな、我が友よ…」
Torの表情に、僅かに力が籠った。
「残念だ…Teus。」
何かを悟った者のする、頬では無かった。
「神に、慈悲を与えるだと?」
「ヴァン族は、狼の扱い方さえも心得てはいないらしい。」
「まだ、お前の方が、上手にフェンリスヴォルフを躾けられていたようだ。」
「不遜であるぞ…!!」
高々と鎚を掲げた身体が、ふわりと宙に浮き、
黄金の火の粉が、再びルーン文字から迸る。
「まずいっ…!!」
逃げなきゃ。
全身が警笛を鳴らすも、観客へと成り下がった身体は言うことを聞かない。
「Siriusっ……」
傍らでぐったりと動かない彼だけでも、俺の口の中へ覆い隠せないか。
で無ければ、地面を駆け抜ける亀裂は、この仔の命を。
それだけじゃない。
Teusや、我が狼のすぐ脇に控えるFreyaだって。
Torの振り落とす雷鎚は、皆に平等であるのだ。
「地に伏せよっっ!!」
“低ク構エヨト、言ッタハズダ。”
“頭ガ高イ。”
「っ……!?」
しかし、大狼は、それを遥かに超えて、飛翔する。
高く、高く。




