312. 奇跡さえ超えて君の元へ 2
312. Meteor 2
その呼び声は、遠吠えの如く響かない。
流星が従える尾のように、低く長くは棚引かない。
それでも、狼も寝静まる夜半の刻、
幾日も静寂を保ってきたかに見えた減衰の扉が、
ギィィィィィ……
ゆっくりと、開いたのだ。
“……。”
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「そんな、馬鹿な…!」
Torの乾いた絶句には、先まで一切感じられなかった焦りが、ありありと滲んでいる。
武器を携えた右手に力を籠めることさえ、忘れている程に。
「一体、どうやってっ??」
その狼の名が、呼ばれたことで、神の視点から、全てを理解したらしい。
「た、確かに、ディッチャは、転送路を歩いていた筈…?」
「迂回路だって…!!」
「つまり、あれでさえ、完全では無いと言うのか…?」
「なるほど……」
「どうやら、遅かったようだ。解放済みであったとは。」
「私の驕りが故、か…。戦場を離れれば、そんなことにさえ、気づけなくなる。」
「父上。どうやら、今日は2匹も、相手取らなくてはならないらしいようです。」
「…encoreの拍手など、聞こえては来ませんが。」
「その唸り声、本物らしい。」
捉えた音は、突風だ。
地に広がった外套を巻き上げて攫うと、
低いうなり声を伴って、地を這い舞台の中央で吹き上げる。
それを従えているかのように、彼女は動じない。
“……。”
毛皮からは、霜煙が絶え間なく溢れ、
青白く彼の存在を一層際立たせ、
唐突に訪れる冬の冷気を纏って靡き、彼女の脇へと寄り添う。
開かれた瞳は、夜明けの雪上が如く青かった。
そして、敵を見れば、不敵に笑う。
あいつの面影はしっかりと残されているのに。
その一挙手一投足に、どれほど身を焦がされ、狂わされてきたか。
“フゥーー……”
大狼は、吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出す。
口元で僅かに上った白煙は、まるで雪景色へと様変わりした外界の実感だった。
“呼ンダカイ…オ嬢ヨ?”
“ドウシテ、我ノ名ヲ…?”
“我ノ名ヲ、知ッテイル…?”
「勿論、知っているわ。」
Freyaは、狼が差し出した頬の毛皮に両腕を添える。
彼は、またしても、屈まなくてはならなかった。
彼女は、まだまだ、子供だったから。
「私、覚えているもの。」
「遠い、遠い昔の、物語だけれど。」
「けれども、遊んだ仲間を、覚えているわ。」
「そうでしょう?」
「ねえ、パパ?」
“フフフ…”
“ソノ方ガ、聞キ馴染ミガアッテ良イ。”
“待タセタナ、Freya。”
舌先で、恭しく、頬を舐める。それがありふれた、嘗ての挨拶であるらしかった。
“ドウダ?久シブリニ、背中ニデモ乗ルカイ?”
「ええ、良いの…?」
「でも私、こんな身体で登れるかしら。」
“アア、大丈夫。是非、乗ッテ欲シイノダ。”
“我ハ、其方ヲ、迎エニ来タノダカラ。”
“ソウ…迎エニ来タノダ。オ嬢。”
「…ええ。ずっと、待っていたわ。貴方のこと。」
“……。”
“ダガ、ドウヤラ主ヨ。其方ガ憂慮シタ通リトナッテオルラシイナ。”
“ソノ前ニ、我ハ家族ヲ、救ワナクテハナラヌヨウダ。”
“ダカラ、其方ヲ乗セルノハ、少シダケ、待ッテイテクレルカ?”
「お願い、できるかしら?」
「お願い…助けて、Fenrir。」
「みんなのこと。」
「あの人のこと。」
“…勿論、オ嬢ノ頼ミトアラバ、”
“地獄ノ底カラダッテ、駆ケツケテ見セルサ。”
「ソウイウ訳ダ。英雄ヨ。」
「我ニ、モウ一度、英雄ノ座ノ眺メヲ見サセテクレルノカ?」
「モウ一度、アノ時ノヤリ直シヲ、今度コソ、」
「ヤット、我ハ、家族ヲ救エルノカ?」
「コノヨウナ独壇場ニ、我ヲ?」
「ゴ招待頂ケテ、光栄ダ。」
「…ソシテ、主ヨ。」
「…久シイナ。」
「サア、ドウシタノカ。」
「主ヨ、我ヲ…狩ルノデアロウ?」
「……。」
「…無論、そのつもりであるとも。」
Torに賢明さが残されていたのであれば、少なくともこの場で彼を、一人で相手取ることを選びはしなかっただろう。
だが、一介の戦士として、挑まなければならなかったのだ。
己の驕りを自戒こそしておきながら、
彼は既に、一匹の退治を成功に収めている。
それならば、今此処で、筋書を変えることも、或いはできるやも知れない、と。
或いは、単に、自らが犯した失態を拭い、挽回しなくてはならない任に怯えているのか。
何れにしろ、傍から眺めていれば、無謀だった。
どちらが、狩られる側であるのかを、まるで分かっていない。
どちらが、狩りの最高峰であるのかを。
私では、遠く、遠く及ばない。




