311. おおきなしっぽの、ちいさなぼうけん 3
311. A big tail's little adventure 3
「おい、女子よ。聞いておるのか。」
「ぅー…ぶー……?」
「聞こえなかったか?あまり口元に触れてくれるなと言ったのだ。煩わしい。」
口を漱ぐことを怠ったのが、早速咎められているでは無いか。
主の父親の臭いをふんだんに纏った我に、この息女はそうせざるを得ないとは言え、良く懐く。
「ぶぅー…ぶー…だ…?」
「何だ、口答えとは、小生意気め。」
尤も、幼子の言葉となると、同じ人間同士でさえ、苦心させられるのだろうが。
相互理解など端から試みなくとも良いのだと分かっていても、
それが我を際限なく苛立たせるのは言うまでも無い。
「…我が人語を解することを、幸運に思うことだな。」
「だぁ……ぶぅー…?」
「それとも何か、人語で幾ら詰ろうと、伝わるまいとでも思ったか、戯け。我は…」
「びゃあああああああぁぁぁぁぁ……!!」
「くっ…」
何だ、一体何が望みだ?
いや、何が気に喰わなかったと言うのだ。
ああ、首をぷいと背け、主が引っ張りたい髭を取り上げたのが、不味かったか。
「…ほらよ。」
我に出来ることと言えば、其方の無限の遊び相手になってやることぐらいだものな。
嘆息も大きく、とぐろを巻いた中央に嵌められた小娘が手に取れるよう、頭を横たえてやった。
「これで、満足であろう、お嬢さn……」
「あぎゃあぁぁっ……びぃぃやあぁぁぁぁぁーーーーーーっっ!!」
「っ…」
眼をぎゅっと瞑り、耳を劈くような悲鳴に危うく身を捩らぬよう耐え忍ぶ。
「ばぁぁぁぁーーーーだぁぁぁー……!!」
そんなことで、鳴き声が止むとでも思ったか。
彼女はより一層欲求の叫びを激しくする。
「その声…」
「飢えたか……」
恐らくそれで、間違っていまい。
本能的な叫びは、人も狼も共通であるということだ。
我が、人語を解する上に、聡明であることに、感謝するが良い。
そうは言っても誰かが賞賛してくれる訳でも無い。
狼狽える気力も失せた我は途方に暮れるより他無かった。
どうしたものか。
乳房など、主の為に垂らしてやれぬぞ。
肉は、喰えぬだろうな。仔狼ですら、早すぎる。
そうなると…
「主よ、あんまり髭に触れるでない…」
変な考えが頭を擡げる前に押しやり、少女を包んだ毛布を口に咥える。
あぶない、欲されるがまま。良いように吐かされてなるものか。
主に吐き戻しを与えるなど、それが何の肉であろうと、考えただけでぞっとする。
「主の館に戻るとしようぞ。役に立ちそうなものがあるに違いない…」
「だから、暫し辛抱せよ。」
そう詫びを入れて、我が仔よりも遥かに軽いその身を持ち上げた矢先だった。
「きゃーっ!!きゃああああああーーーーっっ!!」
「なっ…なんd…」
「ばぁーーっ!!わきゃあああああーーーーーーっ!!」
忽ち湧き上がる、今度は歓喜の叫び声。
「空腹は、何処かへ行ってしまったか…」
それは道中、彼女をゆっさゆっさと激しく揺らせば揺らすほど、甲高く我の耳の内を擦るのであった。
「はぁー……」
ああ、これが、本当の我が仔らであったなら。
そう嘆かずにはいられない。
妻と我の間を行ったり来たりする仔を見守り、
きっと、この身を粉にして、くたくたになるまで、喜んで遊び惚けてやれただろう。
つい、昨日まで、目の前にいた。
鼻先は、その臭いを、耳は貴音の上擦る鳴き声を、ありありと思い出せるのに。
目を醒まさぬ間に。我らは其方らの元から、姿を消してしまった。
済まない。
「……。」
思い出したくないと、我は言ったはずだ。
彼女のことも、我が護れなかった、群れ仲間たちのことも。
我には、尊く幸せな日々さえ抱えて糧とする資格は無いのだから。
なのに、なのに。
これは、何だ。
どういうつもりだ、主よ。
「在奴め……。」
覚えていろ、などと悪態を吐く始末だ。
お前もであるのだぞ。主よ。
主のことなど、記憶の奥底に仕舞い込み、思い出しとう無かったのに。
我の前に、姿を現せ。
懲らしめてやるとも。主は元来、痛い目を見ないと反省というものをしない暴君よ。
我の前に、姿を現せ。
この小娘をどうにかせよ。この仔だけは、主が抱えるべき命であろうが。
これは、罪滅ぼしのつもりか?
それとも、いつもの突飛な思いつきで、我に与えたがった報復が、これであるのか?
「……。」
この仔を、どうやって育てよう。
このままでは、まずい。
こうして生かすだけで精一杯だと言うのに。まず、まともな人間には育つまい。
我が幾ら人語に長けた賢狼であるとしても、文化を持たぬ以上、限度がある。
だからと言って、狼の仔として扱うのは如何なものだろうか。
いっそ人間に仇為す、復讐者にでも仕立て上げてやろうか。それも悪くないやも知れぬ。
しかし、我の背中に彼女を乗せて、それで、どうする。もう一度ヴァナヘイムに乗り込むと言うのか?
「分からぬ。我は、在奴の娘に、どう接してやれば良いのだ…」
「ぶぅ……?」
初めは、本気でそんなことを考えていた。
我は、おかしくなってしまったのだろうか。
前提から、あり得なかった。
育ててやろうか、など。
「時期が、余りにも悪い…」
我が妻の出産もそうだが、時期外れであるのは確かであった。
直に、厳しい冬が訪れる。
既に、結論は出ていた。
この仔を、ヴァナヘイムの、在奴の親族の元へと返すのだ。
それまで父親の代わりを、受け持ってやる。
我が、この娘を返すのは、春になろう。
彼女をそっと、彼らの根城の入り口に置き去りにしても、直ぐには凍え死ぬことの無い季節まで。
それまで我は、この土地で越冬せねばならぬと悟ったのだ。
我自身、此処が何処であるかも分からぬまま、この娘を口元で運びながら極寒の雪原を旅に出ることはしたく無かった。
食料も、この娘が生き永らえる分は残っていそうで、人間の臭いに囲まれる安心を享受できるのなら。
避難所としては、十分であろう。
「それで良いな?女子よ。」
「……。」
「既に、落ちておったか……」
「おやすみ。」
父性か、夢の続きでも見たかったのか。
その夢の中に、貴女はもういないのに。
はたまた、この小娘の魔力に魅了でもされてしまったと言うのか。
我は、この仔を育て、送り返すことで、
それが主の願いを叶えたことになり、
此方からの罪滅ぼしとさせて貰えるのなら、
もう少しだけ、このお嬢様の遊び相手となってやれなくもないのだ。




