311. おおきなしっぽの、ちいさなぼうけん 2
311. A big tail's little adventure 2
これだけ噎び泣き、其方の名を叫ぼうと、誰も呼応するものはいなかった。
同胞たちに、我が吠え声を知らぬものは居らぬのに。
悲しみに暮れた心情とは裏腹に、辺りは熱を帯びぬ白日に晒され、
街並みは静かに、そして明るく照らされて行った。
もうすぐ降るだろうかと、期待に仰ぐ寒空である。
どれだけ時間が経ったかと言えば、夜明けから皆を探し回って、今に至るのであるから、
実に数刻の間であることに、我は驚きを隠せない。
「……。」
全て、失ってしまった。
最早、この土地において、我は本当に、一匹ぼっちとなってしまった。
それさえ飲み込もうとしない。この胃袋は、ぐうぐうと鳴きながらも、もう一杯である。
虚しさだけが、しくしくと込み上げて来て、ただ狼狽え辺りを窺うばかり。
誰かが、そこに居るやも知れぬ。
それが、最悪人間であっても良い、などと内心譲歩する始末で。
こんな孤独を抱えられるようでは。
今や我は、新たな群れを求めんとする、どの一匹狼よりも役に立たぬような気がしている。
「ああ…えり好みをするつもりは、無いのだがな。」
「このままでは、埒が明かぬ…」
我が目下の目標とは、依然として変わらぬままだ。
この口が最後に含んだ獲物の感触を洗い流したい。
口直しのおやつを探しておったのだった。
しかしこうして鼻を嗅いでも、辺りは人間の臭みですっかりと潰されてしまっている。
我の思い描く喰い物を目当てに探し回っては、寧ろ効率が悪いようだった。
いっそ、この街から出てしまった方が、馴染のある獲物に出会えるだろうか。
地続きな、我の縄張りであるか、それだけでも確かめてしまいたい。
生憎、此処が何処であるか、皆目見当がつかぬ。
在奴は、遠い何処か、としか言わぬかったから。
だが、そうすると当然、我はヴァナヘイムの片割れを捨て置き、
見覚えのある景色や、嗅ぎなれたマーキングに巡り合えるまで、奔走する日々を送ることになる。
それは些か、惜しい気がしていたのだ。
この土地は、在奴らの縄張りであることは、重々承知の上で。
吐き気を催す瓦礫の山から、一刻も早く立ち退きたいと思う一方で、
もう、どうせ誰もいないのだから、一匹ぼっちなのだからと。
ひょっとすると、一度この地を後にすれば、
この街は我の前から、姿を消してしまうのではと思ったのだ。
ちょうど、あいつが我から、もう片割れを護ったように。
それならば、二度と、巡り合えなくなる前に、
我の重みで、動けずにいるうちに、
最期にゆっくり、見物して回りたいなどと、悪戯に芽生えた好奇心にしてやられた。
気を紛らわすのに格好の口実を、単に逃がしたくなかっただけと諫める者も、今や居らぬ。
お世辞にも、あいつが針小棒大に語った優麗なる大都市とはかけ離れておる。
これが、元は倍の広さを備えていたとしてもだ。
もうちょっとだけ、が、永久に続くことはあるまい。
「単に、腹も空いた…」
本能的に生き永らえようと言うのが、烏滸がましく、滑稽ではあったが。
自暴自棄な我が身に、明日はあるまい。
何のことは無い、冷静さを欠き、初めの思いつきにしがみ付く愚かさよ。
我が身に降りかかった悲劇を忘れ、
軽率に道を踏み外すぐらいで、寧ろ良いのだ。
「ううむ。城門を過ぎれば、小さい塒ばかりでは無いか…」
「物色してやろうにも、鼻先でさえ通さぬ穴では。中も覗けたものでは無い。」
「いっそ、割って壊してやっても良いが。みだりにそうしてやるのも、今となっては些か気が引けるぞ。」
視界を遮るものがまるでなく、表通りを行進する大狼の様は、まさに蹂躙と言う他無かった。
それがちょっと気晴らしになって、また独り言を我に聞かせてやる口実が欲しくて、
嫌に影の伸びた幽霊街を当ても無く闊歩する。
朝方までは、此処にも平穏な朝が訪れようとしていたはずなのだ。
それらしい、辿るべき痕跡は、あるように思えた。
何やら、甘ったるい臭いが、時折鼻面を撫でる。
今、その正体を掴み倦ね、それに誘われてやろうとしている。
これがきっと、在奴の言っていた、ケーキという喰い物の正体であるのだ。
それを起き抜けに口にするのが人間の嗜みであるのか、それはもう知る由もあるまいが。
「また、消えてしまった…」
その痕跡が、風向きを変え、我の鼻先で、幾度も明滅を繰り返す。
案内人としては、大層要領が悪かった。
終着点であるのなら、そう言うが良い。
だがこの家屋も、我が邪魔をする余地を残してはいないようだぞ。
ゆるりと観光気分で、街中を練り歩くつもりは毛頭ないのだが。
「いや、此方か…?」
我はそれに固執した。
この匂いは、我の当初の目的に沿っている。
鼻の内壁にこびり付いた血の臭いを、既にその甘い菓子の香りは、塗り替えつつある。
これはきっと、口元に残り続ける肉の味も、舌が痺れる程に掻き消してくれるに違いあるまい。
「これ、か……?」
そうして導かれて来てみれば、行き当たったのは、ぽつねんと街はずれの広場に捨て置かれた東屋だった。
此処が、ヴァナヘイム北部の切れ端に当たるらしい。
存外、変哲も無いな。
「ふむ……」
確かに、その屋根の下に、目ぼしいものはあった。
しかし、既に冷めておる。
とても、強烈な蜜の香りを放っていたとは思えぬ。
しかし、導かれた甲斐も、あったようだ。
道中から気づいてはいたが、一際大きく、立派な建造群が、この北部に在った筈の山の端に代わって聳えていた。
そしてこの東屋有する広場は、この屋敷の主の庭であったらしい。
此処が、ヴァナヘイムでも貴い神族が住まう場所であったとすれば、
なるほど、此処で優雅な朝食を嗜もうというところでの、狼藉であったと。
その一角に、大きく開け放たれた広間。
どうにか我の頭をねじ込み、内見の叶う広さを構えているようだ。
「邪魔するぞ……」
そう詫びを入れ、灯りを外からの漏れ日に頼った部屋の中を窺う。
臭いな。
充満した人の臭いに、思わず顔を顰める。
その上、締め切っていたのか、かび臭い。
それで、気づくのが遅れて大慌てで、飛び出したのだろう。酷い荒れようが見て取れた。
肘掛けやら、机やら、至る所に、人間が身に着けていた長衣が散見される。
着の身着のまま、という奴か。大事なものさえ抱えず、駆け出したと見える。
済まないな、心情察してやれる。
…にしてもこの匂い。
在奴のそれでは無いが。
近しいものを感じ取れている。
思うに…血縁、その眷属の、住処だったのだろうか?
「……?」
まさか……?
‘Fenrir…‘
’俺の家に、遊びに来て欲しいんだ。’
すうすうと微かに聞こえる寝息。
その足元に転がる毛布の束を、恐る恐る捲る。
「……っ!?」
‘君に、会わせてあげたい。’
まさか、この赤仔…
“……?”
その仔は、産まれたばかりの狼と同じく、青色の眼をしていた。
美しく育てば、直に在奴と同じく、茶褐色のそれへと変わるだろう。
「主よ…」
‘名前は……’




