308. ヒーローアライブ 2
308. A Hero Lives 2
「良かった。」
「救世主の、ご到着だぞ。」
その一声に、
Torは希望を滲ませ、
俺は絶望のどん底に突き落とされた。
“う…、そだ…”
“リ…ウ、ス…?”
“……な、のか…?”
冬毛をしっかりと身に纏った狼の仔が、闘技場を照らす塔の灯りの足元に照らされ、
此方をじっと見つめている。
俺が、眠れないぞと、下らぬ死生観に子守唄を謳わせている合間に。
事は既に、為されてしまっていたのだ。
悪夢に苛まれ、苦しそうに上げる呻き声を聞きつけたのかは知る由も無いが。
文字通り、一緒に眠りたいと、
彼はあの日より、少しも大人びた様子を見せずに、尾をゆったりと仰ぐ。
“……。”
その風貌は、ますます彼を思わせて、胸が詰まる。
ちょっと、見なくなっただけなのに。
彼とはやはり、俺が憧れた狼であるのだ。
それが何かの影の見間違いだと気づかされないかと。穴の開く程にその姿を見つめても、
実感だけが、俺の視界を色濃く埋め尽くすばかりで。
じんわりと腹の内側が冷えて、凍り付いて行くのを感じる。
終わったのだ。
何もかも。
奇跡を唱えることの出来る者は全て、
この世界から絶えた。
“……さん?”
“これ、は…?”
ああ、何も知らないでいてくれたのだな。
それだけで俺は、少し、救われたような気持でいる。
済まない。
折角、遊びに来てくれたのになあ。
さぞかし、仲間たちの土産話に、身を焦がされたことだろう。
期待ばかりが膨らみ、それでもお前が故郷に残ることを選んだのは、
こうして顧みれば、賢い選択であったのだな。
それが、どうだ。
ようやく、遠出を許されて、いざ遊覧に脚を運んでみれば。
お前の群れ仲間たちは何処にもおらず。
ようやく見つけた一匹も。
このざまだ。
「さあ、こっちへおいで。」
「君のお友達は、ごらん、此処にいるぞ。」
“……め、だ…”
「怖がらなくて良い。」
「そう言っても、信じては貰えないか。栓無き事だ。」
“来ちゃ…”
“だ、めだ…”
「ほら、お前の方からも、伝えてやってくれ。」
「お前の臭いを嗅ぎたい。」
「そう願っていると。」
「違うかね?」
「う゛う゛っ……」
彼は、その雷槌を、猛獣使いが携える調教の道具か何かであると倒錯してしまっているらしかった。
であれば、もう少し、鞭など、手心を加えて貰っても構わないのだが。
“Fenrirさんっ……!?”
しかし、この仔を呼び寄せる為に、一番効果的である叫び声を上げさせるには、十分だったのだ。
そうでなくたって、ずっと逢いたかったのに。
走り寄って来る姿を目の当たりにするだけで、泣き崩れてしまいそうなぐらい。
でも…
だめだ。
絶対に、Siriusを此方へ向かわせる訳には行かない。
もう既に、その石段を飛び降りようと、身構えている。
叫んでも、無駄か?
この通り、全然元気だぞ、と。
肝心なところだ。
こうやって、気持ちよさそうに眠っている場合では無い。
彼の生死に関わる判断を、再び強いられているのだ。
忘れられたなら、それだけで幸せと言えたような瞬間の味わいが蘇り。
眼球が震えた。
Garm。
…勇敢なお前なら、この仔を護るために、どうしていた?
まだだ。
まだ、終わっていない。
この仔を、今度こそ。
そう胸の内に吠えただけで、目頭が熱く潤み、
止まりかけた心臓がバクバクと激しく脈打つ。
“ウス……”
まだ、あと少しだけ、この身体を、動かさなくては。
眠気でぼぅっとする頭を、働かせなくては。
目を醒ませ。
“Sirius……”
眠っている場合か。
何をのうのうと、死にかけの怪物を気取って、怠惰をはたらいている。
こんな奴に、群れを、あの仔を奪われて堪るか。
俺が口を開かなければ、これから何が起こるか。
それは手に取るように分かることだ。
息を押し殺して、俺は頭を全速力で回転させる。
どちらであるのか、見定めかねていたのだ。
この狼が、何処からやって来たのか、
Torの言う通り、既にあの門を潜った後であるのか。
それとも。
もし、Skaが、しくじっていなかったのだとしたら…?
彼だけが、まだ諦めていなかったとしたら?
どうやって、その決断に至ったのかは知る由も無い。
しかし自らが赴く以上に、この窮地を救える狼の仔がいるなら、
その翼に万丈の思いを、託したいですと希っていたのだとしたら?
“……。”
Torは、重要な事実を、本当に見逃しているだろうか?
もう一つの、召喚魔法に気が付いていなかった、なんてことが。
彼は、あの箱に捕らわれた滞在者を、具に上から眺めることが出来ると言った。
そして、俺たちが渡した、群れのリストと照合することで、各個体の識別も可能であると。
それは、彼が脳裏に想像するような形で、彼が金属箱の天板に立ち、ガラス張りの床から透過したように覗き見ることの叶う、即時的能力だろうか?
もしそうであれば、Siriusが、その通路を通ってしまった時点で、気が付くんじゃ無いのか?
俺の臭いを丹念に嗅ぎ分け、路に迷うことも、寄り道に誘われることも無く辿り着くまでの時間、
この肉体を散々に痛めつけたのは、彼を此処まで導くため、それだけの為であったのか?
彼の出現は、それ自体が、タイミングを逸していないが故に、
その不自然さは、取るに足らない解れであると、
そう傲慢に振舞える程度には、彼は怪物退治に酷く興奮しているように見えた。
それを、装っている可能性を拭えない。
だがそれは、傍観者の発想。
Torからしてみれば、それを疑う必要も無い。
彼の興味は、ただ一点に尽きる。
Disenchantmentに憑いた大狼の守護霊は、本当に取り除かれているだろうか?
それだけだ。
それさえ明らかになれば、彼らは自由に、俺達に対して自由な介入を施すことが出来る。
文字通り、神の威光を保てるという訳だ。
その真意など、到底俺の想像が及ぶところでは無い。
いずれにせよ、その除霊が、きちんと執り行われたかどうか。
Torが確かめる方法は、最も手っ取り早くて、そして一つだ。
槌は光らずとも、その殺意は隠せない。
殺される。
それが意図も簡単に、計画の完遂の確証を得るための手段として選ばれることが想像できた。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
“Fenrirさんっ!!”
“そんなっ…??”
“待って…何で…っ!?”
“今っ…いま向かいますからっ!!”
もう、あの仔に来るなと言っても、無駄だ。
あの仔にとって俺が、そんな存在なってしまったことが、
今になって、堪らなく嬉しい。
どうしたら、どうしたら良い??
俺はSiriusを今度こそ救う、そう決めたのだ。
どんな手を使ってでも。
どんな手を、使ってでも。
俺が、どうなったって。
それが一番、やりたく無かったことだったとしても。
俺が一番恐れた。
俺が狼であることは、そういうことだと信じ込んで来た。
それを、実行に移す時だ。
俺は血眼になろうと、その燃え盛る意志を、ひた隠しに出来る。
”……。”
俺は、こいつを。




