306. 筋の戒め
306. The Dromi
全く以て、抵抗するどころでは無かった。
俺がきちんと、Torのことを、敵だと看做せたとしても、
闘技場内から逃げ出す選択に走れたかどうか、怪しいものだ。
神様に嗾けられた遊びなど、どうだって良い。
逃げれば良かった。立ち向かおうとなんてしなくて。
それは、決して恥晒しな行為でないと知っている。
皆に嗤われようと、俺は逃げ出し、自分を助けてくれると信じている誰かの元へ、駆け出せたはずだ。
俺は、そうできたはず。
二人が自分のことを愛してくれることが、当然だと思っていたから。
…何度も、言っているだろう。自分に、言い聞かせて来ただろう。
その甲斐が、あったとは。
だから、だから今は、逃げ出さずに、その場で立ち尽くす一瞬を味わったのか?
俺には、逃げ場があったんじゃないのか?
俺が当然と思えるような。
どうだ。
覚えては、いないか?
“……。”
跳ねた。
俺がご機嫌に、群れへ向かって鼻先で蹴り飛ばしたボールのように。
まともに喰らった神雷槌は、俺の身体をいとも容易く宙へと弾き。
そこまでは、覚えている。
“……?”
目が醒めると、俺は満身創痍の身体に、心地よく満ち足りた疲労を覚える。
多分、ほっとしているのだ。
俺は未だ、Garmが俺なんぞに負けたことに。Siriusが俺を喰い殺してくれなかったことに、
ずっとずっと、
羨望を青く染めたような劣等感を、覚えていたものだから。
“……!?”
だが、そこまでだ。
視界が、輪郭を取り戻して欲しくないのに。
“―――……。”
そして、現実に引き戻された。
死者の心臓が、再び鼓動を始めるような軋み。
それが、全身へと駆け巡って、
随分と、長い時間を眠っていたように思ったが。
俺は息を吹き返す。
“……っ!?”
第2展開。
既にその拘束術は、始まっていたのだ。
“ウヴ…グフッ…ウゥッ……??”
まさか、その担い手が、ご友人であったとは。
想定は、していなかったがな。
溺れたあいつのように激しく咳き込むと、口の中で、舌が上手く動かないことに気が付いた。
“う……が、…?”
全身を砕かんと締め上げる鎖の束。
見たことの無い綴りが、俺の前脚を、口元を這いずり廻る。
丁寧に巻き付けるだけの時間は、十分にあったらしい。
“……な、に…?”
気が付くと、俺は闘技場の中央に横たわり、崩壊した地面から幾筋も伸びた鎖によって、へばりつくように縛り上げられていたのだ。
“ぐ…ぐぅ……??”
鎖に手向けられ、俺の毛皮が見えなくなるほどの束だ。
本当に、狼一匹を生け捕りにする為に、これだけの冒涜に興じる必要があるだろうか。
“……?”
これで、観衆は大盛り上がりか?
それとも、余りにもあっけない決着にブーイングの嵐か?
いや、本当に、そうだろうか。
落ち着け、落ち着くんだ。
慌てるな。
決して、そんなことは無い。
“……?”
何かが、おかしい。
この違和感は何だ?
“これ…は…?”
おかしい。
全身の力を振り絞らずとも、
僅かに鎖の輪が撓む。
“え……??”
「…言ったはずだ。」
それを知ってか知らずか。
彼は勝ち誇った様子をまるで見せない。
「これは、御前試合に過ぎぬ。」
Torの右腕に握られた雷槌は、既に光を宿してはいなかった。
もう、これで十分、とのことらしい。
だが、それだけの為に、こんな茶番劇の為に、
あれだけの御膳立てが、果たして必要だったか?
俺に、序列を押し付けて、それで終わり?
神様の威光とやらを存分に見せつけて。
これに懲りたら、良い仔にしていろよ。
でないと、次は息の根を、完全に止めてやる。
そう捨て台詞を吐いて、それで立ち去るだけ?
違う筈だ。
「ま…て……」
その呻き声に、彼はマントを翻し、此方を悠々と振り返る。
「驚いたな、フェンリスヴォルフ。」
「まだ、戦う意志を見せるとは。」
「……?」
此処に来て朗々と謳われる台詞の白々しさよ。
「どうだ。雁字搦めに狩り捕られ、」
「それでも其方は、その鎖を食い千切り、立ち上がることが出来るか?」
……??
何を、言っている?
「未だ、間に合う。取り戻せるのなら。そう信じて、其方は、私の招集に応じたのでは無いのかね?」
「手痛い仕返しを目論んでいたのなら、尚良い。」
「そうだ。フェンリスヴォルフ。狼の仔よ。」
「いかにも。其方が憎む相手で、私は間違いないぞ。」
……!?
「さあ、向かってくるのだ。」
お前謎、この私が相手をしてやるぞ。
その言葉とは裏腹に、彼の右手に込められた力は、相棒に光を滾らせることをしない。
「……。」
何が、狙いだ…?
すぐに分かった。
これは、Loejingr の改良版であると。
そして、改良の域を出ていない。
俺は、窮地に追い込まれていると知りながら、密かに悟ることとなる。
神々は、俺を容易く屠るだけの武器と、それを操る武人を備えていながら、
未だ俺を拘束する術を知らない。
「我が主よ、こんなことの為に、態々、この私を寄越したのか…?」
そしてTorは、俺がこの拘束を抜け出す力を有していると、確信している。
そうすることを、望んでいるようだったのだ。
「群れ仲間を、取り返す英雄とは、お前では無かったようだな。」
にも拘らず、彼は落胆したように肩を竦め、
今こうして、無防備であるのだ。




