304. 捕らわれの友よ
304. Gallant in distress
頭が、ふらふらとする。
とても、歩くことさえ、儘ならないのだ。
飢餓さえ俺に嗾ける気力を失った、あの日々でさえ、俺の足取りは幾分か軽やかであったことだろう。
本来であれば、脇目も振らずに走り出さなくてはならなかった。
俺を突き動かす根本原理が、俺のことを、仲間だと呼んでくれた者たちの為だけにあるのなら。
今すぐにでも、この一秒でも削る行為が、その償いになるとでも言うように、
死力を奮って、彼の元へと駆け出し。
それから腹を見せて寝転がり、喘ぐような見苦しささえ見せず、ただ狩り捕られるのを従順に待ったことだろう。
それで、皆が、帰って来るのなら。
俺は、今度は誰の記憶の足跡を、そっくり辿っていると言うのだろう。
Sirius、我が狼よ。
貴方は、仲間を奪われた怒りに支えられ、どうにかその四肢を折らずに済んでいましたか?
Garm、我が現身よ。
お前は、取り戻しに来た。一体に何に支えられ、彼女を返してくれ、仲間を返してくれと、叫んだのだ?
それなのに、俺にその活力が漲らない。
悲劇の主人公にさえ、値しないという訳だ。
最期の一秒まで、足掻くような英雄的は、俺には似合わない。
諦念に自分らしさを覚えているでは無くて、文字通り俺は醜いのだ。
だって、どうだろう。
俺はまだ、助かろうと思っているのだ。
こんな悲劇、全て、俺の杞憂なのでは無いか。
俺が目覚めさえすれば、全て仔狼を苛む嘘だと悟るだろう。
俺の犠牲さえ伴うこと無く、元通りになるような。
そんな奇跡が、突如壇上へと駆けあがる。
その一声を、今か今かと待ち侘びて居る。
俺が予見した最期が、捻じ曲げられるのを。
まだ、断頭台へ向かう方が、足取りも軽かったやも知れない。
何故なら恐らく、俺の死は、揺らがないからだ。
“……。”
来島の初期に比べれば、随分と過ごしやすくなったと思う。
特にこの夜風はそうだ。
晩秋の冷気は、そうと感じられただけでわくわくする。
間もなく訪れるであろう、萎れの便りに思わず喉笛が疼く。
闘技場を赤々と照らす塔の炎たちが、満月に道を譲れば尚よい。
潮の臭いも届かぬ、奥まった盆地を会場に選んでくれたことに、思わぬところで感謝させられるようだ。
冬至祭が始まるまでは、此処を寝床に定めても良い。
来客も、今日この場で追い返してしまえば、何の問題もありはしないであろう。
“……。”
彼は狼の耳を持たぬが、それでも俺が此処へやって来ると知っていた。
俺が、必ずお前は再び姿を現すと悟っていたように。
その確信が、互いにあった。
久しいな。
以前に比べれば、俺もお前も、心の準備が出来ている。
此処に居るのは、憑き物の取れたように、怒りを露にせず、ふらふらと入場する俺と、
翻って、肝の据わった、落ち着いた表情で観客席に腰かけるお前だけだ。
お互い、実りある会話を紡げることに期待しようでは無いか。
さあ、答え合わせを、させてくれるのだろう?主よ。
初めに俺が目にしたこの男の衣装が、言ってみれば邸内における正装。
公服のような煌びやかさを備えていたのに対し、今日のそいつは違った。
それもまた、正装であるのだろう。
外套は右肩を晒すようにして掛けられ、胴に纏われた鎧が顔を覗かせている。
そうは言っても、甲冑ほどの重装では歩兵も務まらぬ。
彼は、戦線で戦う装いを選ぶことに、誉を見出しているようだった。
手甲には、見覚えのある楕円の模様が彫られ、そこから4本の革紐で結ばれている。
その手の中には、彼が唯一携える武器がきつく握りしめられていた。
その槌、前とは違った震えを帯びている。
ちょいと、舐め過ぎていたみたいだな。
「…それでなら、俺を狩れると、父なる神はお考えであるのか?」
「……。狩る?」
「俺が?」
彼は笑った。
豪胆な戦士らしい、ガハハと朗らかなそれとは程遠い。
寧ろ、お前があいつの旧友であるという事実に、心から納得させられるような、寂れた笑いだった。
「ふざけるなよ。そんなことをすれば、今度こそTeusにぶち殺されてしまう。」
彼は、石段から降りると、勿体ぶった足取りで、俺の佇む中央へと歩み寄った。
あの時の彼が見せた震えは、もう何処にも見て取る事が出来ない。
とても神様とは思えぬ。畢生を悟った、戦士の顔だ。
「あいつ、変わらなかったな…」
「お前も、そうは思わないか?」
「……。」
「昔っからそうだ。誰にでもにこやかに振舞うくせ、一度怒ると、本当に手が付けられない。」
「お前も大層、手を焼いたのではないかね?」
「……。」
俺は、微笑み返すような相槌を打たなかった。
弾む会話もない、しかしそれ以上に、俺はTeusを知らないと認めたく無かったのだ。
「俺は、そうは思わない。」
「…ふん、まあ良い。」
「元来、そんな暴君めいた素養が無ければ、主神の座は務まらないということなのだろうさ。」
皆、血沸き肉躍る、英雄譚が好きなのだよ。
此処は、そんな闘いを演じる…壇上であると思ってくれれば良い。
生憎、剣舞などとは下らないというのが、私の率直なところだ。
そもそも、心得ていないのだがね。
「さあ…さっさと始めるとしよう。」
始める?
「ああ。あいつが此処に来る前にさ。」
「でないと、勝敗もクソも、あったもんじゃない。」
「Fenrir、お前に決闘を申し込む。」
「……?」
「冬至祭の余興にしては、幾分か、盛り上がりには欠けるが…」
「我が友に免じて、付き合ってくれるかね?」
「安心しろ。」
「互いに、命を奪うようなことはしないと、此処に誓うとしようでは無いか。」
「……そうして欲しいのなら、初めから命乞いでも…」
「勝者は、望むものを願うと良い。」
「俺は、その為に来た。」
「お前が俺に、膝を着かせたその暁には、全て話してやるとも。」
「お前も、その為に、招集に応じたのだろう?」
「…まあ、でも、何だ。」
彼は歯切れ悪く、軽い弁明のような咳払いを左拳に当てる。
「決まり文句のような、ものなのだ。どうか、聞き流し給えよ。」
「……。」
「神のご加護の、あらんことを。」




