303. 琥珀の牢
303. Amber Prison
「来ない…来ないぞ…」
「まさか、本当に…?」
Skaを送り出してから、今日で15日目だ。
纏わりつく熱気よりも耐え難い、ねっとりとした焦慮が、毛皮を垂れる。
全神経を集中させ、あらゆる方位に傾けても、俺の耳には、召喚の調べが聞こえて来ることは無かった。
まだか、まだかと、苛立ちに鼻を鳴らし、
それこそ何度も、微かな音さえも聞き逃すまいと、周囲の気配を更新したのに。
遅くなってしまい、申し訳ありません。
そう詫びながら、颯爽と自分の眼下へ現れてくれるお前に、ほっと胸を撫でおろしたい。
あの凛々しく、自らの知性を自覚した表情に、俺もTeusも、全幅の信頼を置いたのだ。
なのに到頭、彼が訪れること無く、一夜が明けてしまったのだ。
それは、俺が最後に託した希望が潰えてしまったことを意味する。
万に一つも、俺が仕掛けた転送の魔法陣の居場所を、嗅ぎ取り損ねるようなことはあり得ない。
あいつだけは、その信用に値する。
そんな下手を打つ程、彼はこの物語に見放されてなどいない。
主人に牙までもを捥ぎ取られるようで、どうして群れの長が務まると言うのだ。
従って、彼は失敗したのだ。
恐らくは、例の転送路に、自ら嵌りに行ってしまったと見て、間違い無いだろう。
予想だにしない事態に陥ったと、本音を此処で吐露させて貰いたい。
「どうしよう…そんな…」
そして俺は、此処に来て初めて、己を支えてくれた仲間の一切を失ってしまったことに酷く狼狽え、文字通り、両前足の間に頭を抱えて呻き声を上げたのだ。
「み、みんなが…」
俺の描いていた筋書とは、こういったものだった。
Skaは、ヴェズーヴァへの帰還を果たしてから、あの金属箱の正体を、ヴェズーヴァでただ一匹知ることになる。
予想が正しければ、俺が最後に送り出した狼の群れは、きっかり2週間後に、転送を完了させない。
Teusの力の残滓が、待機が、未だはたらいているからだ。
俺が嗅ぎつけた呪文は、恐らくそう言った目的で壁面に刻み込まれたものである。
壁に埋まるようにして隠された残りの半分が、ヴェズーヴァから、Lyngvi島へ至る者に対してかけられた待機であるとするならば。
俺が目にしたそれは、送り出した彼らを待機させる。
それが、2週間という歳月で終わらない、というのが俺の仮説だったのだ。
何故なら俺は、あの時とんだ過ちを犯してしまったからだ。
rir
それが、どうにか判読のつく、俺の名の一部。
あの時、どんな閃きがそうさせたのか。それに爪を深々と突き立て、横へと傷跡を伸ばしたのだった。
俺の名が、秘密裏に壁から消し去られることを狙って。
しかし、それが裏目に出てしまったのでは。
俺は、そう怯えたまま、彼らとの最期の日々を空虚に過ごしたのだった。
俺はあれから、Teusに一切の介入の余地を与えなかった。
故に、それから起きる ‘異変’ は、そのまま俺の介入による結果である。
その結果として、彼らは転送されなかった。
そうならないことを願い、その真偽をSkaに確かめさせたのだ。
もし、何も起こらなければ、それで終わりだ。
あの文字列に込められた秘密は未だ、帳に覆われたままとなるが、
彼らが安全に故郷へ送り届けられたのなら、俺は心配性を拗らせてしまったと嗤えば良い。
だが、逆に、俺が思った通りなら。
あの待機呪文は、元より俺を対象に差し向けられた呪文だった。
そうだ。俺はそれを初め、俺の転送を禁じた、例外処理であると看做したのだ。
これさえどうにか破れば、俺は自由な行き来が許され、神々の真意に近づける筈だと。
それが失敗に終わったのは、すぐに分かった。
何のことは無い。俺は、その最奥の壁面の向こう側へ進むことを許されなかっただけ。
Fen
では、駄目なのだ。
だが、それだけでは、終わらなかったらしい。
その恐れとは、おそらくこうだ。
この呪文の対象を、俺は広げてしまったのではないか。
俺だけを対象に唱えたその呪文が。
俺の行き来を封じる、例外処理では無く。
別の目的を目論んで描かれた布石であるとするならば。
その目的の対象を、俺は指定し損ねさせてしまった。
暴走させてしまった。
俺だけを対象に指定した、俺に対する、Teusの待機呪文を。
そして、問題となるのは、その待機時間。
1日か?
それとも2日?
もっと?
俺は、Torに、どうされて欲しかった?
ずっとずっと、力無き、哀れな仔狼のように。
一生、あの ‘革の戒め’ 《The Loejingr》に、縛り上げられていれば、良かったのでは?
Skaが帰って来ない、といことは、つまり、そう言うことなのだ。
俺は、自らの策に溺れたのでは。
自らが軽率に刺した一手に負けたのでは。
待機:∞
唱えられずに、終わる。それが、俺の脈絡無き推論だ。
“時間だ。”
“行かなきゃ…”
その二日後の夏の帳が降りる頃。
一足先に、冬至祭会場へと現地入りする召喚の足音があった。
着地音は、どうやら4足の獣のそれでは無い。
是非とも、最大の敬意を以て、事の顛末を迎えてやるとしよう。




