300. 実在への書き込み
300. Write into Being
長い、長い14日間だった。
ずっと洞穴に籠っている内に、幾らか和らいだように思えた暑さだったが、単なる気候の一過性によるものに過ぎなかった。
今は、俺の思考を蕩けさせるどころか、甘く腐敗させようかと忍び寄る。
Teus、お前はこんな風に、苦しんでいたのか?
何度もお前に俺を重ね合わせるような無礼を思い描いて来たものだが。
もしそうだとしたら、今は心からお前を軽蔑してやりたい気分だ。
神様は、劣勢に傾く牙城を、盤上から眺めていることしかできない。
人間の世界に、直接手を加えることは出来ても、大勢が決していく様は、自分さえ包括する天上の存在に動かされているかのよう。
自分で駒を動かしているような気になっているだけ。大局を決めるのは、何枚も上手な幸運の女神。
もし、自分が思い通りに動かせているような気分に浸れていたなら、それは彼女が合わせてくれていた結果に過ぎない。
そう思い知らされたもどかしさと、誰かがそれを正当化し、慰めてくれないかと視線を逸らす姑息さが、今は手に取るように解る。
何も、出来なかった。
この身が置かれた世界を、現実を、日常と呼ぶのであれば。
絶えず、その裏で起き続けている悲劇に目を逸らしながら、二人に向けて笑顔を取り繕う日々だった。
知らぬふりをしていたのではない。しかし、どうにも出来ないことに心を裂いても仕方がないと言い訳をするような、擦り減らす毎日。
ともすれば、取るに足らないのではとさえ。
この物語を悲劇的にするには及ばない、取るに足らない憂慮であるのでは。
そんな芽を伸ばす土壌が俺に敷かれていたことが許せない。
赦してくれ、そう請える相手はいないのに。
今朝、手紙の速達があった。
「これ……」
想定していたこと、と言う訳では無かったが、見計らったかのような頃合いに、差出人の浮ついた心持ちが察せられて滑稽極まりない。
TeusとFreyaが住む邸宅の、郵便受けに入れられていたそうだ。
今度は、包み隠さず、知らせた方が良いと思って、だと。
「気付いたのが、今日だから、もっと前に届いていたのかも知れないけど。」
白々しい。心の内で、そう吐き捨てる。
蝋は外されずに、そのままの状態であるのが見て取れた。
とは言っても、これが神々による、初めの一通である保証は、幾らかの尋問を伴わなければ示されるものではない。
受理されるまで、何通でも同一の封筒を送り付ける粘着質なお告げを、あいつが秘密裏に溜め込んでいたのが、Lyngvi島への招待状であったのだから。
お前が検閲をしなかったと言うより、お前は既読であると示しているようにしか受け取れない。
…邪推が過ぎるか?
「俺の前で、封を開いてはくれないか。お前にも、読んでもらう必要があると思うのだが。」
慇懃無礼とは、正しく俺の為にある言葉だ。
俺は反動形成を隠し切れぬまま、態と明るい声音でそう希った。
「え?勿論、良いけれど。」
Teusは目を瞬かせ、ちょっと戸惑いの表情を浮かべるも、それを快諾する。
「一応、宛名がFenrirになってたからさ…」
「そう言いつつも、結局お前に向けられたメッセージだったりするでは無いか。」
Lyngvi島へ、俺を招待すると言いながら、お前とFreyaが住まう為の街並みを用意してやったり。Odin様も慈愛に満ちたお人好しなのだな。
Tor御一行様が、Vesuvaにやって来ると言うのも。結局はお前との久方ぶりの会話を楽しむ為の口実だったのだろう?
「うーん…甚だしい語弊を含んでいる感が凄いんだけど…」
「兎に角、お前にどうこうしろと、遠回しに願い出るのが、あいつらのやり方なのだ。」
「…そろそろ、お暇願いたいとか、そういう遠回しな知らせなんじゃないか?」
「えー…それは、ちょっと予感していた、かも…」
落ち窪んだ方の左眼で、Teusはちらと不安げに俺の方を見上げる。
「彼方の季節は…どんなもんなんだろう?」
「|真冬《Dead Winter》の盛りか、それが緩んだか、と言ったところだろうな。」
「雪解けは、まだまだってことだね?」
「…ああ、春には程遠い。」
「そっか…」
「今、強制送還させられたら、お前は絶対、風邪を引いてしまうだろうな。」
「うん。Freyaも…」
「……。」
おい、手が止まっているぞ。
悲観するのは、手紙の内容を、読み終えてからにしないか。
「ああ、ごめんね。待って、今読み上げるから…」
上下を逆にするような手際の悪さを披露すると、彼はがっくりと肩を落としてこうぼやいた。
「って、まーたこれか…」
「……?」
彼が手紙の背面を此方に見せたので、すぐに合点が行った。
兄弟暗号だ。
何を意固地になっているのか。俺に合わせてやっているぞと寛大なお心遣いを示しているつもりなのだろうか。
だとしたら、彼らは、少なくともOdinは、俺がルーン文字を識字し、またその法則に基づいて力を行使できる事実を、快く思っていないのではという気がふとした。
人間ですらないはぐれものは、それだけで蛮族であるべきだとするのは、それこそ乱暴な論法だが。
だが俺の操る兄弟暗号の土俵に降り立つのも、それはそれで屈辱を覚えておかしく無いのでは無いか。
分からないな。結局、負けず嫌いなだけなのか。
単に、俺に宛てているのだぞと強調したいのか。
一応、Teusは何とか理解が叶う域に達している認識だが。
「もう、いい加減、普通に書いてくれないかなあ?読むの手間なんだよね…」
「気に入って頂けたようで、何よりじゃないか。他言語を学ぶのは、さぞかし新鮮だろう?」
「それは、書き手のエゴってもんさ。こっちは早く内容を知りたいのに。」
「全く同感だな。どれ、見せてみろ。」
「うん、悪いけど、お願いできる?」
「…鏡になっているだろ。裏面を見せるな。」
「いや…?そんなこと無いって。ほら、こっちが山折りになってるでしょ?」
「何…?じゃあ、そっちを向けろ。全く、どれだけ慌てて寄越したと言うのだ。」
らしく無いな。主神様ともあろうお方が。
誤字脱字に塗れていないと良いが。
「……どうした?」
そうぼやきを舌先で転がしたところで、俺はTeusが、大きく眼を見開いて、手紙を凝視しているのに気が付いた。
「待って…?」
眉を顰め、籠手の嵌められた左手で顎を撫でる。
「これ…ねえ、分かる?」
「何の話だ…」
「…っ?」
Teusの予想だにしない行為に面食らって、今度は俺が大きく眼を見開く。
彼は手紙の本来の表面を此方側に向けると、それを俺に見えるように広げるのではなく、代わりに鼻先に向かって押し当てたのだ。
「……ほう。」
「お前、案外鼻が利くんだな。」
「筆致が、ちょっと似ても似つかなかった。」
「ふむ。なるほどそれは、俺では見分けがつかぬ。」
乾いたインクの臭いに混じって、俺の記憶を擽るものがあった。
危うく見過ごすところだったが、裏面を返したのは、文香のつもりだったらしい。
送り主は、主からの代筆を任されていたのだ。




