298. 3歩先
298. Three Steps Ahead
ああ、良かろう。
お前も、帰るのだ。そうするが良い。
Fenrirさんは、優しく、しかし慎重な口調で僕に囁いた。
“良く聞け、Skylineよ。”
その時、僕の尻尾に、ぞわりと緊張が走ったのを、今でも覚えている。
僕に、Skaという名前を、愛称を名付けて下さったのは、Teus様。
友達が君のことを呼びやすいように、親しみを込めて、と。
僕はその名前、とっても気に入ってました。
Teus様が会わせてくれたお友達が、まさかFenrirさんだとは、夢にも思いませんでしたけど。
貴方は、僕のことを、すぐにその名前で呼んで下さいましたよね。
だから、心の隔たりを感じずに済みました。
威圧的なのは、ぶっきらぼうな口調だけで、本当は親しくしようとしてくれているんだって、安心した。
そんな第一印象を、今になって思い出すのですから、きっと間違いありません。
“Fenrir、さん…?”
僕のこと、初めてフルネームで、呼びました。
そして、今までに僕をそのように呼んで下さっていたのは、只一人。
僕の、本当のご主人様。あのお方だけ。
だから、暗闇を歩く最後尾で、思わず背後を振り返ってしまったんだ。
既に、日没を迎えたLyngvi島の入り口は遠く、霞んで消えかかってしまっていたけれど。
絶対に、聞き漏らしてはならない。
僕、呼ばれているんだ。
“はい、聞こえていますよ。Fenrirさん。”
“……。”
暫くその場に立ち尽くし、それが気のせいで無いことを、確かめようとする。
“いいよ、先に向かっていて!”
後方で遠のきかけた足音の群れが、心配そうに歩幅を狭めているのが分かって、僕は慌てて明るい吠え声を返してやる。
その陰に隠れるように、Fenrirさんの声が混ざった。
“お前に、秘密裏に頼みたいことがある。”
“……!?”
“黙って、そこで耳を傾けていて欲しい。”
“……。”
今、此処で…ですか?
わかりました、けど…どうして、お別れの挨拶をする前では、いけなかったのでしょう。
僕、早く、皆と合流したいです。
“辛抱してくれ。ようやくと、巡って来た好機なのだ。”
“…そうは言っても、もう手遅れかも知れぬ。”
て、手遅れって、どういうことです…?
僕は声にこそ出さずとも、首を傾げ、じっと入り口の方角を見つめて、疑問の表情を浮かべた。
それが、Fenrirさんには見えていると信じて、だ。
…どうしたんですか?
何故、答えて下さらないのです?
“だが、しかし。
一回だけ。
この一回だけに、賭けようと思う。“
“良く聞け。肝心なところだ。”
“お前を今から、転送する。”
……?
“しかし、この転送路によってではない。”
“俺が、お前を直接Vesuvaまで、送り届ける。”
え…?
……え!?
“詳しく説明している暇はない。“
半ばパニックになりそうな心を必死に抑え、Fenrirさんが次に紡ぐ言葉だけは聞き漏らすまいと、獲物に近づく時のように息を潜める。
きっと、今すぐに理解は出来なくて良い。
ただ、忘れなければ、僕はきっと、Fenrirさんのお役に立てるはず。
そして、手遅れの意味も、分からないままで済むはずなんだ。
“……。”
逆立った毛皮が、平静を取り戻すまでの間に、僕が悟ることのできる点は、幾つかあった。
まずFenrirさんの提案とは、僕だけが、Fenrirさんの描いた、あの丸い模様の真ん中に座って、特別にVesuvaへ直接送って貰える、という意味だと思う。
そしてそれが出来るのは、転送に耐えられるのは、天狼の翼を授けられた仔たち。
僕と、そして今のところ、Siriusだけ。
だから、群れの皆には、この ’待機を伴う転送路’ をゆっくり潜って貰うけれど。
僕だけは、今すぐに、送り届けられなくてはならない。
そこまでは、理解できました。
手遅れ、とは?
Vesuvaで、何かが起こっている、ということですか…?
それが、それが何かだけでも。
教えて貰うことは、出来ませんか?
”…もう、俺を信じてくれとは、言うまい。”
“俺が保証できるのは、お前を元居た場所へ、安全に送り届けることだけ。それだけだ。”
……??
それじゃあ、他の狼達は?
“2週間だ。2週間後に、戻ってこい。”
それが、この転送路が、お前をVesuvaからRishadaへと送り届けるのに要した時間であり。
それから、誰も手を加えることの無かったのなら、復路を渡り切るのに待機させられる時間の長さだ。
俺は、死ぬほど、その経路に分岐を加えたことを後悔している。
そこから、3歩先だ。
そこで、動かないでくれ。




