296. 日没を遅らせる者
296. Who slows the sunset
“な、何を…”
馬鹿なことを、即座に一蹴できぬ己を恥じるべきだっただろう。
目の前から、完全に姿を消してしまった誰かは、また逢いに来てくれたのかと尾を振って喜んでいた目の前の誰かと、全く別何者かであったら。
それに気づかぬまま、これから先に一生を過ごすことになったら、どうしよう。
薄々気付いていながら、言い出せないなら、もっと恐ろしい日々が、待ち受けているんじゃないか。
そんな、子供染みた悪夢に苛まれるほど、俺は。
そう一吠え、この狼に浴びせられたなら。
だが、やはり、俺はお前のその紳士的な態度を疑っている。
俺には、お前が、心の内で、俺に牙を剥いて噛みつきたい本性を堪えているのではと、本気で思っている。
それを、お前がSkaでは無い、全くの別狼のようになってしまったと表現するのなら。
或いは、本当のSkaは、あの暗闇の中に取り込まれ、そいつにそっくりな、俺にとって口当たりの良い現実を提供してくれるだけの縫いぐるみが放出されているとか。
そんな、言わなくても良いような妄想を、口にせずにはいられないようなぐらい。
この金属箱は、見た目に直線な転送路は、恐ろしく捻じ曲がった一本道に思えて仕方がない。
“そう…”
“問題なのは、あの箱舟であるのだ…”
耐え難い疑念を捻じ伏せ、一つずつ、ぼんやりとした当たり前を、はっきりとさせて行くしかない。
“まただ…”
“……また?”
“やはり、ずれている…”
そうなのだ。これは、もう認めざるを得まい。
この転送路、性能はそんなに高く無い。
というか、品質を維持できていない。
“分かるか…Ska…?”
TeusとFreya、そしてSkaが、最初の移動にどれだけの時間を要したのかは、定かではない。
だが、少なくとも半日以下だろう。
それから、俺が現地で、合流を果たしたな。
お前を、転送儀ではなく、転送路でヴェズーヴァへ送り届けて。
半日後の日没に、リシャーダへ届いた遠吠え。
それから半日後の未明に、此方へと無事に戻って来てくれた。
そしてお前は言った。
昼が長いと。
始めは、LyngviとVesuvaでの時差によるものだと思っていたが。どうにも決め手に欠けた。
そこで生まれたのが、転送に要する時間が、一瞬では無いという仮説。
前提が、そもそも間違っていたとするには、余りにも突飛で、俺やTeusの経験に反するものだ。
お前は、半日の時間をかけて、転送路の中を彷徨っていた。そんな疑念を後押しするには、この金属箱は暗すぎる。
しかし、確信に至ったのは、お前が、初めて群れ仲間を連れて戻ってきた後の話。
往復で、ちょうど1日と数時間。
やはり、それぐらいで、転送が完了するらしい。
安定性の担保か?あいつはそんな話もしていた。
往路と復路で、転送の方式に、引いては結果に差が生じ始めているとの疑念も、まだない。
それから、三日間、殆ど眠ることもせずに、お前が引き連れて来たお友達の相手をして。
Yonahを呼び寄せたいとの告白と共に、俺はお前を再び送り出した。
一週間の返事待ち。この時点で、その辺りの疑問は、疾うに興味の対象では無くなってしまっていたが。
俺の元から、Yonahが去ってしまってから。
お前が来るまでの間、逆に彼女のことを考えずに済むような、考察の相手に、必死にしがみついていた。
Skaが、彼女の帰還に喜び、一夜を過ごしてから。
居た堪れない関係から逃れるようにして、第2陣を引き連れる名目で、ヴェズーヴァを発つ。
その間に、俺が失意のどん底で、泥のように地に広がり。
ちらと、とある疑念が頭を擡げ始めるまで。
13日と半分だ。
始め、半日程度に思われていた、転送の完了が、
今や2週間にまで及ぼうとしている。
Skaが往来に要した日数は、どうやら、彼とその群れ仲間が決断に至るまでの躊躇の時間とリンクしない。
純粋に、転送路が、彼らを送り届けるのに要する時間が、伸びていると解釈せざるを得ない。
Teusは、自らが告白した通り、
無力であるはずじゃ、無かったのか?
何の気なしに催した、季節外れの夏至祭が。
ヴェズーヴァを本物の幽霊街へと変貌させてしまった。
それは、奇跡と呼ぶに相応しかったか?
お前が、数多の狼達と、紡ぎ続けてきたように。
今回も、俺がその場に居合わせてしまったばかりに。
実際に起きた現象の説明として、妥当なものだったのか?
Kokkoに誘われ、渡り歩いた英霊に混ざって。
Garmが、すぐそこまで、迫っている、などと。
妄執に囚われたお前の言うことは、真に迫っていたか?
仮に、そうだとしてもだ。
在り得ない。
お前が壁面に刻んだ呪文が。単独で効力を発揮していたなど。
そして俺は、お前と一度も、一緒に通過を成し遂げなかったはずだ。
“あの金属箱…”
“単独で動き続けているのだとして、改変が効く、のだな。”
お前のメッセージは、そう示している。
お前は、懲りもせず。自分に出来ることは何かと、お節介を焼く。
足掻く。
まだ、介入の余地があると。
神様を、気取っているのか?
俺には、未だに、人間になり切れない人狼を見るようだ。
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「つまりは、お前自身の資質が全てであると。」
「そう言うつもりはないけど、誰にだってできることじゃないんだろうね、きっと。」
「そうだろうな、少なくとも、俺には無理な話だ。」
本当に?
Fenrirなら、その気になれば次の日にはマスターしてそうだけれど。
「その文字には、他に一体どんな付加価値がつく?」
「うーんと、それはねえ…。」
彼は、慣れ親しんだ読書を媒介するそれが、己が力を何かしら高めてくれたと信じているようだ。
そう考えたことはなかった。先に言った通り、文字とは単に力の通りを良くするだけだと言う俺の認識とは意見を異にしている。
他に得られる恩恵とは、何だろう。
真っ先に思いつくのは、名前が記せる、と言うことだ。
ヴァナヘイムに住み着いた狼の群れの全てに長老が名前を付けたのはとても賢明なことで、もし俺がSkaを本当に転送したり、召喚したりを頻繁に繰り返さなければならないのだったら、彼の姿を頭に鮮明に思い描くのに非常に苦労する羽目になっただろう。
相手の名前を知っていると、何かにつけて便利だ。例に挙げてきたSkaの運送を実際に行使するとなった時にも、ぼんやりとではあるが脳内にそのための世界を創り出さなくてはならない。
きつく瞑った瞼の裏に見える世界に、濃淡だけで表現される夥しい存在が、再び目を見開いたときに実現されるような感じだ。個人差はあるだろうが、そう言う世界観を持っている。
名前を文字として手掛かりにすれば、その世界に住む彼のある程度の場所を探り当てられるようになるし、仰々しい古書を抱えて文字を刻む負担自体も簡約化されてぐっと減る。
逆に得体の知れない対象を動かすのは、はっきりとしたイメージを持てていないからなのか、結構曖昧な範囲でしか叶わない場合が多い。
「名前って、文字を伴う必要も無いのにね。なんでだろう…ぱっと思いつくのはそれくらい。ごめん…わかんないや。」
「不思議な話だな。」
Fenrirは、俺が歯痒い思いをして言葉を選ぶのに心を砕いているにも拘らず、それを読み聞かせの夢物語に耳をまた向けるように、穏やかな様子だ。
いつの間にか、焚き火は暖炉を思わせるように、心地よく爆ぜている。
まるで彼の灯火に密接な繋がりを持って生きているようだ。
「…そこまで深掘りをするつもりは無かった。俺が気になっていたのは、Skaと…Yonahと、それから手のかかる子供たちは、その間に煩わしい思いをせずに済んでいるのかと言うことだ。」
「…と言うと?」
「まさか、貴様は彼らを檻の中に押し込めてから、それをほっぽり出して俺の元に赴いている訳ではあるまい?」
こいつらが無為に村の片隅で時間を過ごしている様を想像すると、居た堪れないではないか。
待ち時間にしてみれば、小一時間はあるだろう。仔狼たちは持て余し、耐えきれぬであろうぞ。
「ああ、なるほどね。勿論 ‘待機呪文’は可能だよ。確かに文字を運用できる利点の一つかも。」
「Suspend は、もっと扱える人が限られてくるんじゃないかな…?」
自分もこの魔法使いめいた表現に熟れて(こなれて)きたかも知れない。
神様であることを止めたなら、そう名乗るのも悪くないかもしれないなと思った。
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「お前が敬慕されるべき存在であろうことは、当初から感じ取っていたとも。」
「本当に?」
「ああ、そのひけらかそうとしない態度も含めてだ。」
Fenrirは率直な感想を口にする。
そのような話は、今の今まで耳にしたことが無かった。
やはりお前は、凄いんだな、と。
いつもの一言余計な皮肉も忘れ、まるでSkaのような尊敬の眼差しで見つめて来るので、もう俺は此方から視線をずらすしか無いのだった。
何の混じりけも無く彼に賞賛の言葉を贈られると、それはそれで、ちょっとばかり恥ずかしい。
壮大な世界を歩いて来た狼にとってさえ、余程驚くべき発想だったのだろう。
「それもあるが。平然とやってのけていたことにも、な。」
「まあね。これくらいは、どうってことないよ。」
「…まだまだお前は、隠された爪を有していそうだな。」
「おだてても、何も出ないよ?」
ああ、そうか。わかったぞ。Skaに食べさせてやったお昼の肉料理が欲しいのか。
仕方ないなあ。助けて貰ったお礼に、今度出来立てのやつを持って来てやるとするかな。
言っておくけれど、頬っぺたが落ちるよ、あれは。冬じゃなくても熱々のが食べたいぐらいだもの。
勿論、そんなことが出来るのは、自分と一握りの神様しかいない。
そう、何より気分が良かったのは、彼は自分のことを素晴らしいとか、立派な ’神’ であるといった褒め方をしなかったことだ。
純粋にTeusと言う友人の自慢話を、微笑んで聞いてくれている。
「お前は、本当に凄いのだな…。」
「うーんと、何の話だっけ? そう、だからさっきの例だと…」
「つまり待機とは、転送と召喚の境界を曖昧にするものであると言うのだな?」
「え?なんて…?」
少しばかり己の力を誇示する機会を与えられたので、Fenrirにも尊敬されるときがやって来たのだと良い気になっていると、彼は忽ちその幻想を奪っていったのだった。
得意げな口調を隠し切れず、続けようとしていた話はこうだ。
俺はSkaとその可愛いお嫁さんと、それから可愛い仔狼たちを一度Fenrirの洞穴の目の前まで送り届けようとする。
まだしない。このまま執行すると、Fenrirは突如として現れた小包に驚いて飛び起きる羽目になる。
差出人には直ちに見当がつくだろう。彼は訝し気にこの金属箱の周囲を歩き、中身が何であるかを慎重に吟味した上で、送り主がやって来るまで開け放たないことを選択する。代わりに次に目にした俺に向かって、どんな罵声を浴びせようかを熟考するのだ。
そこで、待機という概念の出番だ。
簡単に言ってしまえば、任意の時間だけ、その結果を遅延させる。
俺がSka御一行様をこの世界から一度取り去ってから、Fenrirの元へと降り立つまで、あの金属箱は転送の効果の処理に従わない。俺が良いと言うまで、転送が終わらないのだ。
当然だが、この時間はいつまでも伸ばして置けるという訳ではない。
実体を伴わないとは言え、抱えたままにして置くのは生理現象を我慢するように気持ちが悪い。いずれ集中の限界が切れて、彼らは通常通りにあるべき場所へ移される。
それまでの間であれば、Fenrirが手品だと表現したように、懐からすっと取り出すような仕草で、何もないところから仕込んでいた贈り物をいつでも彼の目の前に持ってくることが出来る。
何となくではあるが、その容量も決まっている感覚がある。だからこれはポケットなのだという表現が、自分としては一番しっくりくる。図書館の正確な運搬には、かなり神経を使うし、流石に他の小包が入る余地は無さそうなのだ。
それで、Fenrirは何か別の解釈によってこの現象を納得しようとしている。
「それは、お前と言う観測者からすれば、転送と召喚を、同時に行っているようには見えないか?」
「うーんと、なんでそうなる…の?」
何故か彼は、うきうきとした口調でめちゃくちゃ楽しそうだ。
「お前が初めに行おうととした御業は、確かに間違いなく転送と呼ばれるもののようだ。しかし、お前が俺との何気ない会話を邪魔せぬよう控えめに現れたそいつは、もし仮にお前が初めからヴァナヘイムにて待てを喰らわせていたこいつの家族を此処でようやく召喚してやるのと、結果は同じでは無いのか?」
「あー…なるほど?」
なるほどと言いつつ、まるで分かっていない。相槌を打っただけだ。
「それに、お前が主体的な行為を一つのうちに同時に行っているようにも思える、という意味でもある。」
「人間の言葉で喋ってくれない?」
「都合の良い部分だけを、重ね合わせていると言っても良い。」
「人間の言葉でしゃべっ…」
“フシュゥ…。”
Skaは僕にも分かりませんと鼻を鳴らす。
「転送の始まりには、始点として術者であるお前と…これから俺のところに寄越すSkaがいる。」
具体的な例を自分から持ち出して良かったと心から思った。概念的な話を延々と続けられては溜まったものではない。
「それはお前の話によると、まだ扱いやすい範疇だと言えそうだ。転送先については知悉しておかなくてはならないが、送ると言う行為自体にはそれほど繊細な技術を必要としない。お前はそう謙遜するのだな?」
その通りだ。実際、よく知っている場所に送り届けるだけならば、転送先について神経を尖らせる必要はもう殆どなくなって来る。ここだけの話、Fenrir宅もその一つになりつつあるのだが、礼儀と言うものはちゃんとあるべきだ。どこでもドア、と言うのはデリカシーの欠片も無い遺物だと思う。
「それは召喚の際にも言えることだ。呼び寄せる対象さえ明確であるならば、お前はその居場所を既に知っているのだから、この行為もまた探り当てると言う面倒な過程を簡略化してしまえる。」
「なるほど…」
今度は生返事ではない、少し理解できた。
「それ故、お前にこの待機呪文と呼ぶ術は高等的でありながら、かえって扱いやすそうにも思えるのだ。ふむ、達人の境地とは、複雑な現象を簡潔な法則の組み合わせで…」
あーもうちょっとその先は分からないです…。
まるで今日見た夢の話を記憶が朧気になってしまわないうちにまくし立てる子供のようだ、と思った。
Fenrirって、こういう話をするのが好きだったんだな。
不思議で堪らない出来事を、ああでもない、こうでもないと賑やかに推理するのが、きっと最高の暇つぶしなのだ。
そうなると、俺自身のことについても、もっと色々と尋ねてみたくて仕方が無かっただろうに。彼には抱えたくない過去を匂わせてしまったばかりに、随分と気を遣わせてしまっていたのかも知れないなあ。
「…それはお前自身が、目の前に在るものの拠り所を失わせているわけだ。」
完全に彼の論述を聞き流し、跳ね除けようともしない彼の尻尾を触る手に徐々に力を込めようとしていた時だ。
「…うん?」
「だからお前自身にも分からない。それが転送されてきたものなのか、はたまた召喚されたものであるのか。」
先の続きであることは辛うじて分かったのだが、どうしてそのような結論に行き着いたのかは知る由もない。
「お前はいずれ、目の前にあるものの帰属さえ、見失う事となろうぞ。」
「…そうかも、知れないね。」
彼がそのように警告した上で、満足そうに微笑むので、
俺はその言葉の意味を良く噛み砕こうともせず、大狼が飲み込むようにして平らげたのだった。
――――――――――――――――――――――
これが、あいつの言っていた、奇跡の我流。
“Suspend…”
この箱が有する力、その嘗ての宿主の一切は
あの神様に、帰属するのだ。




