295. 平面の敵
295. Flatline
すると、どうだろう。
俺達の憂慮が、差し迫っていたかに見えた破滅が、
杞憂であったに過ぎないと嘲嗤うかのように。
淀んでいた空気が、堰を切ったように、再び流れ始めたのだ。
“ご無沙汰してましたっ!!皆さんっ!”
その、まさに翌朝だ。
特段、Teusの間に了解があった訳では無いが、俺達は朝夕の時間だけは、この記念碑の前で共有することを日課としていた。
お互いに、その日にあったことを報告し合う訳でも無い。俺達が初めて会ったばかりの頃のような、ぎこちない、そして当たり障りの無い会話を爽やかに交わすだけだ。
当然、先日目撃してしまった、こいつの夜回りについても、遠回しな穿鑿を入れたりなどしていない。
おはようと、おやすみが、奇麗にすれ違うだけの時間。
その隙間に、彼が割って入った。
“いやー、こっちは随分と、暖かくなりましたね。ヴェズーヴァは、流石に眠る前に尻尾で覆い隠してやらないと、鼻先が冷たくなってしまいます。”
きょとんとする俺達の視線を交互に見つめて、尻尾を雄大に振り回す。
“お二方、僕がいなくて、寂しく無かったですか?…まさか喧嘩なんて、してませんよね?”
“ささっ!Teus様、存分に、撫でてくれて良いんですよ?”
「ええっと…と、取り敢えず、ご飯用意してあげてくれる?Fenrir。」
「う、うむ。承知した…」
“あ、えーっと…どうぞ、お構いなく!!”
俺達の鬱屈とした日々を吹き飛ばす様な、お前の屈託ない笑顔が、これ程不自然に思えたことは無い。
寧ろ、憎悪の裏返しとさえ、捉えられたのだ。
“お、おい…お前…”
“はい、何でしょう?あっ、僕もFenrirさんに、挨拶させて貰っても、良いですか?”
彼は仰け反り、鼻先を高々と上げて、自分の口元に触れさせろと要求する。
それに気が付かなかった訳では無いが、俺はやんわりと顔を逸らす拒絶さえ怠った。
“Skaよ…”
どの面を下げて、危うくそう口に出しそうになる。
“Y、Yonahは、しかと、お前の元に、帰ったのだよな…?”
“……?”
彼の不思議そうに此方を見る眼差しに、心臓を直に撫でられるような緊張が走る。
“そ、それとも…”
“ま、まさかお前、Yonahを迎えにやって来た、のか…?”
“…何を仰ってるんです?”
“あ、あぁ…その…”
“あれ…僕ら、何か、勘違いをしてませんか?”
“ちゃんとYonahが戻って来てくれたから、またこうして僕がやって来れたんじゃないですか?”
……?
“……。”
当たり前だ。
彼は、当たり前のことを、俺に向って述べているだけだ。
あの箱には、何も無かった。
金属箱の転送路に、通過者を攫うような、奇想天外の罠が仕掛けられている訳でも。
だが、それ以上に、不自然に映るのは。
お前が、今までと何一つ変わらぬ態度で、俺に話しかけて来ることでは無いか。
“ま、今回遊びに来たのは、僕だけじゃないんですけどねー!”
“ウッフ!!ウッフ!!ワゥオオオーー!!”
“もう良いぞっ、出てこいっ!!”
「わっ、どしたのSka。そんな急に吠えないで…」
自分が心行くまで、Teusの愛撫を受け満足した所で、彼はようやく、暗闇に潜む同胞へ向かって召集の吠え声を張り上げた。
“大丈夫かしら、勝手にこっちに来ちゃって。Fenrirさんに怒られない…?”
“そりゃ、勝手に一匹で入り込んだら、そうかもだけど。ボスが着いて来て良いって言ったんだから。”
“そうだよ、それに、全然怖くなんか、無かっただろ?真っ暗だったけど。”
無論、彼の存在を俺の耳が捉えた段階で、悟っていた気配だ。
俺が先日迎えた群れとは、だいぶ顔触れが変わっているらしい。
“ほ、ほら…Fenrirさん、やっぱり怒ってるんじゃない…?”
“そう?そんな風には、見えないけれど…”
“そんなあ…せっかく来たから、ご馳走だけでも、食べて帰りたいなあ。”
俺のお咎めを、今回限りは喰らわないと確信しての、蛮行に及んだのだ。
今、この場で、最も甘やかされるべきは自分であると、よくよく理解している。
だが、そうだとしても、せめて相談の一つでもあるべきだ。
お前は、そんなに軽率な狼の統率者では無い。
“どうしたんですか?Fenrirさん。具合でも、悪いんですか?”
“Y、Yonahは…”
“へ……?”
“何も…?”
“何もって、彼女に何か、伝えるように言われたってことです?だとしたら、忘れちゃってるのかも。僕のお嫁さん、ちょっと忘れっぽいところあるから。”
“……?”
“ならば…ならば、良い…”
“その…暫しの滞在に感謝していると、伝えてくれ…”
“はぁ…わかりました、けど…”
“大丈夫ですか?なんか、いつもと違う感じです。失礼かもですが…”
“ちょっと、変ですよ?Fenrirさん。”
“……。”
“あの。僕はYonahが帰って来てくれたのなら、それでもう良いんです。”
“彼女が戻って来なかったからって、わざわざ一匹でFenrirさんの元へ向かうと思ったんですか…?
“僕がどれだけ、彼女のことを愛しているか。どうして分からないんですか?”
“…もちろん、思いました。遅いよ、いつまでそこにいるのさ、って。”
“Fenrirさんの臭い、彼女にいっぱい、着いてました。僕の臭いが、分からなくなってしまうくらい…”
“……。”
“なんで、なんで…”
“すみません。何でも、無いです…”
彼はすっかりと耳と尾を垂らし、それから高い声でぴぃと鳴き声を上げてから、トロットのリズムで、足早に主人の元へと去って行ってしまった。
「あれっ、どうしたの。みんな揃って。Fenrirにどやされにでも来たのかい?」
“えへへ、そんなこと無いですよー。前回来れなかった仲間たちも、Fenrirさんに本当に会えるならって。”
“勝手なことをしてしまいましたが、第二陣も編成することになりました!”
“Yonahも、Fenrirさんが、寂しそうにしていらっしゃったと言うものですから…”
「そっか、そっか。まあ、あいつの遊び相手になってあげてよ。」
「Skaが来なくって、半べそかいてたくらいだから。」
「ね、Fenrir?」
再び訪れた日常
その全てが、疑わしく見えてならない。
「Fenrir, ce ai făcut pe această arcă?」
彼の唇は、そう言っているように見える。
ただの、憶測に過ぎないのかも知れないが。
これは、彼が期待した未来では無い。
少なくとも、あの夜に、俺に嗅ぎつけられるのを覚悟して敢行した工作が、齎す帰結では無いのだ。




