294. 呪文変容
294. Spellshift
“なんで、半分…”
穴の開くほど、凝視するも。
その先を見通すことは、俺にだけ、許されていないようだ。
“彼方側に、埋まっているのだ…?”
そこに、俺の名はあった。
‘Fen’
より正確に言えば、そこで、壁の淵に届いている。
僅かに覗かせる、鋭利な先端は、’R’ の上半分を示す三角形であるに違いない。
結論、俺は三日の無駄足を喰わされたことになる。
松明と言っても、油を染み込ませたりもしていない、ただの棒切れだ。
そいつを何本も使って、汗水垂らして箱の中を這い廻って、ようやくたどり着いた。
しかし我ながら、とんだ間抜けをしでかしたものだ。
よくよく考えてみれば、俺の名は、俺をVesuvaとLyngvi、双方の世界から分け隔てる為、最奥の4辺上に印されていて当然では無いか。
俺も、焼きが回ったものだな。
“くそっ…”
これこそが、俺の探し求めていた痕跡。
俺にだけ塞がれた通路の存在を示していた。
もう少し、もう少し先に、踏み込むことが出来たなら。
俺はその全貌を見渡すことが出来たのに。
この割符に、通行人が初めから気が付くことは、簡単だっただろうか。
俺がTeusやFreya、それからSkaと初めてLyngviへ赴いた初めの段階で。
残念なことに、俺もまた、逆上の余り、冷静な現場の観察を怠っていた一匹であったらしい。
“しかし、覚えたぞ…”
この大掛かりな転送路を安定した状態で成立させる為にも、彫られたルーン文字は、一つも風化させることは許されないと見える。一文字一文字が、しっかりと深く刻み込まれ、その識字のし易さには助けられた。
だが、俺の名前と思しきスペルの周囲だけ、筆跡が新しい。
付けられたばかりの爪痕が、生々しい樹皮の裏側を覗かせるように。
俺の名は、好ましくない神様の臭いを、俺が鼻先を直にくっつけてようやくわかる程度、微かに漂わせている。
これだ、と思った。
こいつが、俺達を引き裂き、破滅へ導こうとする、予言とやらの正体なのだ。
“……”
此方側の、半分の呪文は覚えた。
意味は、半分よりもっと、理解できていない。
しかしあとは、彼方側の。もう半分さえ見抜けさえすれば。
俺もまた、この呪文に対して、働きかけることの出来る立場になれる。
“お前のように、な…”
俺が、読みたかった半分の書き主が、此方側の半分と同一人物であるとするのなら。
そいつはこの金属箱に、新たな改変を加えた。
“……。”
しかし、妙だ。
これがTeusの筆跡だとして、俺の名だけからは、違った印象の字体で存在感を放っていたからだ。
この一節を書き加えたのは、お前だな?
ちょうど、お前が立って本棚を眺める目線であることは、何の証拠にもならないだろう。
お前達人間や神様など、さして個体で高さが変わる訳でも無いからな。
だがお前の臭いを、俺が嗅ぎ損ねると思うか?
あいつが所持している刃物であれば、必ずお前の臭いが残る筈。
この名前だけは、Teusの介入よりも、もっと前に刻まれている。
“……?”
強いて言うなら。
Fenという文字列を消し去ることが出来たならと、そう嘆いているかのように。
横へと引かれている、指でなぞっただけの、薄い臭いの爪痕だけが。
我が名に対して唯一なされた、あいつの個人的感情から来る介入であったと取れるだろうか。
俺が示した答えは、こうだ。
ざくっ…
“思ったより、柔らかいな…”
ギギギ、ギィ……
俺は、彼が思いとどまった決断を。
彼に代わって成すことで。
物語の景色の収束を、早めようとしたのだ。




